《女の、恋人への遺言》

式部卿のみこ閑院の五のみこにすみわたりけるを、いくはくもあらて女みこの身まかりにける時に、かのみこすみける帳のかたひらのひもにふみをゆひつけたりけるをとりて見れは、むかしのてにて、このうたをなむかきつけたりける 閑院の五のみこ

かすかすにわれをわすれぬものならはやまのかすみをあはれとはみよ (857)

数々に我を忘れぬものならば山の霞をあはれとは見よ

「式部卿の親王が閑院の五の皇女に通い続けたところ、それほど時を経ないで女の皇女が亡くなった時に、あの親王が通った部屋の帳台の四方に垂れた布の縫い合わせて下げてある紐を取って見たら、亡くなった人の筆跡で、この歌を書き付けてあった 閑院の五の皇女
幾度も私を忘れないものならば、山の霞を憐れとだけは見てください。」

「(忘れ)ぬ」は、助動詞「ず」の連体形で打消を表す。「(もの)ならば」の「なら」は、助動詞「なり」の未然形で断定を表す。「ば」は、接続助詞で仮定を表す。
私はまもなく死にます。私が死んでも、あなたが私のことを忘れずに折々に何度も何度も思い出してくださるのなら、私が火葬になる山にかかっている霞を私の火葬の名残りの煙だと思って悲しく見てください。
作者は、自分が病で死にゆくことを悟り、恋人への遺書としてこの歌を遺した。
「題知らず 詠み人知らず」は、その歌が普遍性を持たせた歌であることを示している。それに対して、詞書のある歌は、まずは特殊な事情による歌であることを示している。式部卿の親王が通い始めて、恋はこれからという時に、閑院の五の皇女は病になり、回復が見込めない。死を悟った閑院の五の皇女は、せめてもの望みを歌に詠む。「数々に(我を忘れぬものならば)」に、式部卿の親王の愛への期待が表れている。ただ、「いくはくもあらて女みこの身まかりにける」とあるから、二人は付き合って間も無い。作者にはまだ相手に対する全幅の信頼が無いのかもしれない。そこで、毎年霞の頃に自分を思い出すように仕掛けている。「帳のかたひらのひもにふみをゆひつけたりける」から直接詠んだものではないことがわかる。これは、閑院の五の皇女の控えめな性格と二人の関係性を表している。この歌は、詞書と合わせてこうした事情を表している。一方、それでいて、恋仲にある女が死を意識した時の普遍的な思いも表している。編集者は、このように特殊・普遍を併せ持って読んでもらいたいのだろう。

コメント

  1. すいわ より:

    式部卿の親王が弔問に訪れた時に帳に結ばれた文を見つけたのでしょうか。短い期間のお付き合いだったかもしれないけれど、様々な思い出が2人の間には紡がれていたのですね。
    書き付けた歌を送らず共に過ごした場所に結び置いた皇女。親王を残して逝かねばならない、あの方は私を思って嘆き暮らされるだろうか?あぁ、どうか悲しい思いに取り憑かれないで欲しい。そう、私を思って下さるのならあの山に霞のかかる頃、哀れと思い眺め見て下さいませ、、
    親王に宛てられた遺言、本来であれば公にするものではないはず、それを和歌集に載せたという事は、親王は皇女との間に確かに愛を育み、彼女が確かに存在した事実を留めさせたかったのではないでしょうか。なんとも哀切でお二人共が愛おしい。

    • 山川 信一 より:

      親王と皇女の恋ですから、これは公にも認められたものです。そして、その間で交わされた歌も公にすべきではないという意識は無かったのでしょう。『古今和歌集』には、よい歌であれば載せる、それだけのことです。しかも、内容としても何の問題もありません。
      皇女がこの歌を直接渡すのではなく、死後に親王が見つけるように仕組んだところに訳がありそうです。皇女は、大人しく奥ゆかしい性格に見えて、実は結構強い性格だったようです。それは、「見よ」という表現に表れています。皇女は死んでも自分のことを忘れてほしくなかったのです。だから、どうしてもその思いを伝えようとしました。この時、親王への思いは「あの方は私を思って嘆き暮らされるだろうか?あぁ、どうか悲しい思いに取り憑かれないで欲しい。」とまでは及んでいなかったように思います。あくまでも、自分本位です。だから、「霞を私だと見なさい!」と言うのです。ただし、ここまで言うのには、少し気が引けたのでしょう。皇女がこの歌を紐の布に書いておいたのはそのためではないでしょうか。

  2. すいわ より:

    なるほど、思っている以上に平安人たちにとって歌を詠むことは「特別」な事ではなく、自分の思いや考えを率直に表明する手段だったのですね。「私」としてのものと捉えてしまいました。「見よ」の表現についても納得、親王と皇女の関係性も時間の長短に関わらずごく打ち解けた間柄だったのですね。皇女は「生きたい」し「忘れ去られ」たくもない。そこでただ文を送るのでなく紐に結び付けておく仕掛けを残す。結ぶ行為が縁の切れなさも連想させて、より親王に印象付けることに成功しています。女はタフですね。

    • 山川 信一 より:

      ただ、「見よ」というころに、打ち解けた関係と皇女の性格の他に、皇女の不安があるように思われます。今一つ、親王の愛が信じられず、そう言わずにはいられなかったのでしょう。紐に結びつけておく仕掛も含めてそんな気がします。

タイトルとURLをコピーしました