藤原たかつねの朝臣の身まかりての又のとしの夏、ほとときすのなきけるをききてよめる つらゆき
ほとときすけさなくこゑにおとろけはきみにわかれしときにそありける (849)
郭公今朝鳴く声に驚けば君に別れし時にぞありける
「藤原高経の朝臣が亡くなった翌年の夏、郭公が鳴いたのを聞いて詠んだ 貫之
郭公今朝鳴く声にはっとすると、君に別れた季節であったよ。」
「(驚け)ば」は、接続助詞で偶然的条件を表す。「(時に)ぞ」は、係助詞で強調を表し係り結びとして働き文末を連体形にする。「(別れ)し」は、助動詞「き」の連体形で過去を表す。「(あり)ける」は、助動詞「けり」の連体形で詠嘆を表す。
鶯が今朝鳴く声にはっとした。初音であった。しかし、これ程はっとしたのは、初音だったからではない。あなたと死別した季節だったからだ。あなたは初音の頃に亡くなったのだった。郭公の声にそれを思い出し、またあの悲しみが蘇って来た。
初夏は清々しい気持ちのいい季節である。しかも、郭公の初音を聞くのは喜ばしいことである。にもかかわらず、素直に喜べないと言う。そのことで、友との死別の悲しみがいまだに癒えていないことを表している。
季節を題材にした歌を続ける。春秋に続き夏を出す。視覚に訴える歌が二首続いたので、この歌は聴覚に訴えている。天皇、大臣の死から身近な者の死へと移行している。「君」とあるから、貫之にとって高経が親しい友だったことがわかる。表現としては、上の句を詠んだ時の期待が下の句で覆される構成になっている。「(・・・し・・・ぞ)ける」の係り結びと気付きの詠嘆が利いている。編集者はこの構成と文法を評価したのだろう。
コメント
歌にも多く詠まれる郭公、爽やかな季節の訪れを告げるこの鳥の初音は今までなら心踊るはずなのに、いつもとは全く違う思いにかられる。呼子鳥、きっと君が僕を呼んだのだね。もう君が逝った季節が巡って来たのだと思わずにはいられない、と。
状況が変わった事で馴染み深かったはずのものが別の風景を導き出すのですね。
「呼子鳥」は、古今伝授三鳥の一つで、郭公もその候補ですね。貫之には高経が自分を呼ぶ声に聞こえたのでしょう。これでは、初音を聞いても喜んでばかりはいられませんね。読み手に初音を聞く喜びを梃子にして貫之の思いが伝わってきます。初音の見事な使い方です。