《母の死》

ははかおもひにてよめる 凡河内みつね

かみなつきしくれにぬるるもみちははたたわひひとのたもとなりけり (840)

神な月時雨に濡るる紅葉葉はただ侘び人の袂なりけり

「母の喪中に詠んだ 凡河内躬恒
神無月の時雨に濡れる紅葉葉はそのまま嘆きにある人の袂であったなあ。」

「(袂)なりけり」の「なり」は、助動詞の連用形で断定を表す。「けり」は、助動詞の終止形で詠嘆を表す。
陰暦の十月、木々は時雨の雨に濡れて一面に紅葉している。私は今母を失った悲しみに血の涙を流している。そうか、紅葉葉の色は、そっくり私の袂の色であったのだなあ。袖は、私が流した血の涙で真っ赤に染まっているのだから。秋は私と共に嘆きに染まっているのだ。
母を失った悲しみを紅葉した葉の色で伝えようとしている。
前の歌とは秋繋がりである。肉親の死として「妹」「姉」に続いて「母」が出て来る。この順は、死の有り得無さの順だろうか。母は普通自分より先に死ぬ。しかし、だからと言って、母の死を当然とは思えない。悲しみから言えば、肉親の死の中で最も強いに違いない。だから、作者には美しい紅葉さえも血の涙の色に見えてしまうのだ。これは単なる誇張表現ではなく、素直な心情を表しているように思える。すなわち、読み手に誇張表現を大袈裟だとは思わせない。一方、この歌の構成は「・・・は・・・けり」と切れが無く調べが滑らかである。強い悲しみにはあるけれど、母の死を自然の摂理として受け止めるしかないという諦念が感じらる。すなわち、この時の作者の心を坦々と表している。編集者は、この表現と構成を評価したのだろう。

コメント

  1. すいわ より:

    詞書「おもひにて」は「思い偲ぶ」の意味を持つのですね。
    兄弟姉妹の横並びの関係とは違い、直接縦の繋がりの母。血脈の断たれる思いがそこにあります。自然の摂理に従えば致し方ない、頭では分かっているけれど、何歳になっても母の「子」なのですよね。
    神々しいまでに美しい季節に旅立つ母。母を失う悲しさに袂はぐっしょりと濡れる。ふと見やった外の景色、深まる秋を彩る紅葉が時雨に濡れる様はさながら私の心を映したようではないか、と。
    仮名文字だけの歌を見て「るる はは たた ひひ」と同じ文字が重なっていて、これも歌のリズムの良さに関係しているのかと思いました。

    • 山川 信一 より:

      「おもひ」は、そこから「喪に服す」「喪中」の意になりました。血の涙も真っ赤に染まる袂も現象としては有り得なくても、心情としては真実なのです。子にとって母の死は特別なものです。
      和歌は仮名の文学ですから、見た目も大事にしています。音は違っていても同じ文字の連なりの効果は、当然意識しているでしょうね。

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