《姉の死》

あねの身まかりにける時によめる みふのたたみね

せをせけはふちとなりてもよとみけりわかれをとむるしからみそなき (836)

瀬を塞けば淵となりても淀みけり別れを止むる柵ぞ無き

「姉が亡くなった時に詠んだ 壬生忠岑
瀬を塞ぐと淵となっても淀むことだ。別れを止める柵が無いのだ。」

「(塞け)ば」は、接続助詞で条件を表す。「(なりて)も」は、係助詞で強調を表す。「(咲く)ぞ」は、係助詞で強調を表し係り結びとして働き文末を連体形にする。「無き」は、形容詞「無し」の連体形。
川は、瀬を柵によって塞げば、淵となっても淀むものだったなあ。しかし、人はそうは行かない。死別には、それを止める柵など無いからだ。姉との柵は死を止めてはくれなかったなあ。
姉の死に際して、その悲しみに家にじっとして居られず辺りを歩き回っていた時、川を見て詠んだのだろうか。ならば、人生が川の流れにたとえられることを思い出したのだろう。姉であるから自分より先に死ぬのは仕方がない。しかし、そうは思っても別れはつらい。何とかして止めたいと願う。しかし、瀬を止めるのに柵があっても、人が死ぬのを止める柵は無いことに気づいて嘆く。
「妹」から始まり「公人」、「友」、「恋人」に続く「姉」の死である。一般に、「姉」と「弟」の関係とはどういうものだろう。もちろん、「姉弟」と言っても様々な関係がある。しかし、敢えてそこに普遍性を求めればどうなるだろう。その関係はスムーズに行くとは限らないのではないか。「姉弟」の間には、たとえ、そこに好意があったとしても、様々な障害やそれに伴う感情が交錯する。それが「柵」や「淀み」なのだろう。「柵」や「淀み」は、そんな「姉弟」の関係をそれとなく暗示している。しかし、たとえ姉との関係が淀んでいても死別よりはましである。そんな思いを詠んだ。編集者は、「姉弟」の関係を暗示する、このたとえの用い方を評価したのだろう。

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