《強い意志》

あひしれりける人のみまかりにける時によめる みふのたたみね

ぬるかうちにみるをのみやはゆめといはむはかなきよをもうつつとはみす (835)

寝るがうちに見るをのみやは夢と言はむ儚き世をも現とは見ず

「親しく交際していた人が亡くなったので詠んだ 壬生忠岑
睡眠中に見るのをだけを夢と言おうか。儚い世も現実とは見ない。」

「のみやは」の「のみ」は、副助詞で限定を表す。「やは」は係助詞で反語を表し係り結びとして働き文末を連体形にする。「(言は)む」は、助動詞「む」の連体形で意志を表す。「(見)ず」は、助動詞「ず」の終止形で打消を表す。
寝ているうち見るものばかりを夢と言おうか。私は決して言わない。なぜなら、恋人が死ぬなどこの世はあまりにも儚いからだ。だから、私はこの世までも現実とは見ない。恋人の死も夢なのだ。
作者には、恋人の死が現実を夢と思うしかないほどつらいのだ。
貫之に続いて忠岑の「夢」と「現」を使った同じテーマの歌を載せる。この歌は、この世は夢であるから、自分は現実とは見ないという強い意志を表している。そして、その強さによって悲しみの強さを表している。この歌は、貫之の歌に対抗して、自己の経験を元にこの場で詠んだのだろう。「夢」と「現」を使えばこうも歌えるのである。これを通して、選者たちの関わりが想像される。歌人の人生は歌と共にあるのである。編集者は、そんな歌人の人生と歌のあり方を示したのだろう。

コメント

  1. すいわ より:

    友則の歌が敏行を悼む歌なのに対して、この歌も834番の貫之の歌も「あひしれりける人のみまかりにける時によめる」、友則同様、忠岑や貫之にとっても敏行の死は大きな衝撃だった事でしょう。敢えて「友の死」を詠まなかったのは失意の友則に歌人として寄り添ったからではないかと思いました。その上で今起きていることが「夢であればいい、夢であって欲しい」と思いを共有している。歌で支え合う。歌人たちの姿が目に見えるようです。

    • 山川 信一 より:

      なるほど、歌人同士の繋がりを考えれば、心情的にそうだったのでしょう。わかります。ただ、実際は、それぞれ歌を詠んだようにも思います。詠まずにはいられないのが歌人ですから。しかし、『古今和歌集』にそれを載せなかったのは、友則へを気遣う気持ちを重んじたからかも知れませんね。また、編集上は、「友の死」に続いて、「恋人の死」を載せたかったからでしょうね。

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