《権力者の死》

さきのおほきおほいまうちきみをしらかはのあたりにおくりける夜よめる そせい法し 

ちのなみたおちてそたきつしらかははきみかよまてのなにこそありけれ (830)

血の涙落ちてぞ滾つ白河は君が世までの名にこそありけれ

「前太政大臣藤原良房を白河の辺りに送った夜詠んだ 素性法師
血の涙が落ちて湧き上がる白河は君の世までの名であったのだなあ。しかし・・・。」

「落ちてぞ滾つ」の「ぞ」は、係助詞で強調を表し係り結びとして働き文末を連体形にする。「滾つ」のその結びで連体形。ここで切れる。「名にこそありけれ」は、「名なりけり」の「なり」を「にあり」に分解しその間に「こそ」が入った形。「こそ」は、係助詞で強調を表し係り結びとして働き文末を已然形にし次の文に逆接で繋げる。「けれ」は、助動詞「けり」の已然形で詠嘆を表す。
前太政大臣の良房様がお亡くになり、その悲しみで誰しもが血の涙を流している。それが白河に落ちて流れ込み沸き立ち、白河は赤く染まってしまった。こうなると、白河という名はふさわしくない。赤川とでも変えるしかない。白河という名は、良房様の世までの名であったのだなあ。しかしそれでも、良房様亡き後の世は変わることなく治まるに違いない。
作者は、誇張表現を用い権力者の死を悼みつつ、その存在感のほどを表している。
私的な死から公的な死へと転じている。前の歌と同様に誇張表現が用いられている。しかし、この歌では、その目的が個人の悲しみを表すことから権力者への気遣いを表すことが主になっている。なぜなら、作者は、権力者の存在感を讃えねばならなかったからだ。更に、そこには細やかな気遣いが必要になった。それが「こそ」の結びに表れている。つまり、たとえ白河の名が変わっても藤原氏の世は変わるまいという思いを伝えねばならなかった。だから、この結びにしない訳にはいかなかったのである。表現の細部まで気配りが利いている。したがって、この歌は、公的な哀傷歌の手本を示している。編集者はこれを評価したのだろう。

コメント

  1. すいわ より:

    良房、白河殿って呼ばれていましたね。皆が良房の死に並々ならぬ悲しみに泣きに泣いて血涙を流している。それが川の流れに流れ込み、色さえも変えて「白河」の名を変えねばならないほどだ、と。そこで「こそ」を効かせて良房の死で代が変わっても「藤原」の流れは注ぎ込む涙でいや増しに湧き上がる事を暗に示す。公の歌、大袈裟な表現で敢えて分かりやすく、でも冷静に慎重に時局に配慮して詠まれた歌。同じ死別の歌でも公と私では心情の温度差が全く違います。

    • 山川 信一 より:

      編集の妙を感じますね。元々哀傷歌とは、こういった歌が本来なのでしょう。むしろ、敢えて妹への哀傷を巻頭にしたところに編集者の意図があったようです。この歌を読むことでそれが伝わって来ます。
      それにしても、さすが素性法師ですね。表現に抜かりはありません。

タイトルとURLをコピーしました