《失恋の孤独》

題しらす 藤原おきかせ

うらみてもなきてもいはむかたそなきかかみにみゆるかけならすして (814)

怨みても泣きても言はむ方ぞ無き鏡に見ゆる影ならずして

「題知らず 藤原興風
恨んでも泣いても言う人がいない。鏡に見える影でなくては。」

「(言は)む」は、助動詞「む」連体形で仮定を表す。「(方)ぞ」は、係助詞で強調を表し係り結びとして働き文末を連体形にする。「無き」は、形容詞「無し」の連体形。ここで切れ、以下は倒置になっている。「(影)ならずして」の「なら」は、助動詞「なり」の未然形で断定を表す。「ず」は、助動詞「ず」の連用形で打消を表す。「して」は、接続助詞で順接を表す。
あの人を恨んでも、悲しくて泣いても、それを言おうとしても言う相手がいないことだ。鏡に映って見える私自身の姿以外には。
失恋のつらさも人に語ることで癒やされもしよう。しかし、そんなことをすれば噂になってしまう。だから、自分一人で抱え込むことになる。それでも、堪えられない時は鏡に映る自分に向かって訴えるしかない。失恋とはこうして孤独を知ることでもある。だから、作者は、せめてその自分を歌にすることで、自らを慰めようとしたのだ。
この歌は、失恋の一場面を具体的に捉えている。こんな風に鏡に向かって一人嘆くともあるだろう。女だけでなく男でもこうした思いになることを示している。それを「ぞ」による係り結びと倒置によって表している。その結果、作者の有様が読み手の心に残る。編集者は、こうした内容とそれを伝える表現の効果を評価したのだろう。

コメント

  1. まりりん より:

    「鏡に見ゆる影」とは、そうですね、自分自身ですね。誰かに話すことが出来れば、少しは気持ちも軽くなるものを。自分独りの中に納めなければならない挌闘と孤独。「ぞ」による強調が効いていますね。

    • 山川 信一 より:

      『古今和歌集』は、助詞・助動詞を駆使した歌集です。それを丁寧に味わいたいですね。確かに「ぞ」による強調が効いていますね。
      人が真に孤独を知るのは、こういう場面かも知れませんね。

  2. すいわ より:

    まさに「孤悲(こひ)」なのですね。恨んで泣いて、そうした感情を一番にぶつけたい相手は来ない。かと言って周りの誰かに知られれば噂されて二重に傷付く。ただただ自分と向き合ってこの辛さを乗り越えるほかない。さて、どう乗り越えるのでしょう。こんな辛さを知りつつまた誰かに恋するのでしょうね。

    • 山川 信一 より:

      もちろん恨み泣きつく相手はいません。かと言って、誰に話す訳にも行きません。これ以上の孤独はあるでしょうか。そんな思いにさせられます。まさに、恋は孤悲ですね。なのに、それでも性懲りもなくするのが恋なのでしょうね。

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