題しらす よみ人しらす
あふことのもはらたえぬるときにこそひとのこひしきこともしりけれ (812)
逢ふ事のもはら絶えぬる時にこそ人の恋しきことも知りけれ
「題知らず 詠み人知らず
逢うことが全く絶えてしまった時に人が恋しいことも知ったのだが・・・。」
「(絶え)ぬる」は、助動詞「ぬ」の連体形で完了を表す。「(時に)こそ」は、係助詞で強調を表し係り結びとして働き文末を已然形にし次の文に逆接で繋げる。「(知り)けれ」は、助動詞「けり」已然形で詠嘆を表す。
あの人との逢瀬が全く途絶えてしまった今こそ悲しみや侘しさばかりでなく人が恋しいことも初めて知ったことだなあ。人が恋しいことなど恋の初めから既にわかっていたはずだった。しかし、あれは本物の「恋しい」ではなかったのだ。「恋しい」とは、再び逢える可能性が全く無くなった時に感じるものなのだ。
作者は、「恋しい」という感情を含め恋の真相を悟るのは、恋を失った時だと気づき嘆いている。それに気づき嘆いたところでどうにもならないと思いつつ。
ちなみに、百人一首にある「逢ひ見ての後の心に比ぶれば昔は物を思はざりけり」は、この歌と同じ発想で作られている。ただし、この歌は、後朝の歌であり、実際に逢った相手を讃える歌になっている。つまり、逢う前と逢った後では、物思いのほどが違う。それだけ、生身のあなたは素晴らしい。だから、また逢ってほしいと言うのだ。一方、(812)の歌は、恋の行き着くところ、つまり、恋の真相の厳しさを嘆いている。ただし、それを「こそ・・・已然形」の係り結びによって言い止し、自分がどう受け取め行動するかまでは言わない。どう思うかは読み手次第である。編集者はこの表現を評価したのだろう。
コメント
目の前にいる時はそれが当たり前のことだと思ってしまう。この時、相手を思っている筈なのに、実は恋している自分に対して一番に意識が注がれている。その事に気付かぬまま、関係が途絶えた時に初めて相手がいてこその「恋する自分」だった事に気付かされる。近すぎて見えない、離れて初めて相手の全体像を目にすることになる訳だけれど、その時にはもう手が届かない、、、だから言葉で、歌で心を贈りあうことに平安人は注力していたのだなぁと改めて思わされました。現代人は言葉の扱いがぞんざいですよね。コミュニケーションを取るのもヘタ。今こそ「歌」なのかもしれない、、。
HAIKUが世界で受け入れられたのは、この形式で作れば、庶民でも詩が作れるからです。詩は詩人だけのものではなくなりました。一方、和歌は平安時代、お互いの感情を伝え合う役割を果たしていました。和歌は、情報ではなく感情を伝え合う形式としてふさわしいものでした。ならば、現代でも短歌がそれであっていいですよね。今こそ「歌」の復権を願います。
同じ発想で作られたとしても、やはりこれからも逢えるのと二度と逢えないのとでは、歌の印象が全く違いますね。百人一首のそれは、歌が艶々している感じがします。
人は恋をすると、様々な発見をします。「艶々している」発見もあれば、絶望的な発見もありますね。
今は、小学校の夏休みの宿題として 短歌を1首作る というのがあるそうです。
身内の恥を晒すようでお恥ずかしいのですが、小学5年生の姪は、祖母(私の母)が参考に作った筈の短歌を、そのまま丸写しで提出したそうです。まったく。。
小学校5年生の夏休みの宿題に短歌を作らせるとは!これは少し無理がありそうですね。十分な指導が無いことは、姪御さんがお祖母様の作品を丸写しにしたことから想像されます。これは先生が悪いようです。