題しらす よみ人しらす
みをうしとおもふにきえぬものなれはかくてもへぬるよにこそありけれ (806)
身を憂しと思ふに消えぬ物なればかくても経ぬる世にこそありけれ
「題知らず 詠み人知らず
身をつらいと思うのに消えないものだから、このように歳月を送ってしまった世であったなあ。しかし・・・。」
「(思ふ)に」は、接続助詞で逆接を表す。「(消え)ぬ」は、助動詞「ず」の連体形で打消を表す。「(物)なれば」の「なれ」は、助動詞「なり」の已然形で断定を表す。「ば」は、接続助詞で原因理由を表す。「(経)ぬる」は、助動詞「ぬ」の連体形で完了を表す。「(世)にこそ」の「に」は、格助詞で場所を表す。「こそ」は、係助詞で強調を表し係り結びとして働き文末を已然形にし次の文に逆接で繋げる。「(あり)けれ」は、助動詞「けり」の已然形で詠嘆を表す。
あの人に忘れられて我が身をつらくて嫌だと思うのに死ねないものだから、こんな状態でも過ごして来てしまった夫婦仲であった。よくそれで生きてきたものだなあ。しかし、他に生き方は無かったのだろうか。
作者は相手に翻弄された夫婦仲をしみじみと振り返っている。そして、その感慨を歌にすることで自らを慰めている。
この歌も「憂し」繋がりである。編集者は、こうして「憂し」を使った歌を並べることで「憂し」こそが恋に対する根本的な感情であることを示している。つまり、「恋し」とは、「憂し」と同意なのだと。また、「こそありけれ」で終わることで、読者は言外に様々な思いを想像することができる。上に示したのは、その一例に過ぎない。編集者はこの「こそ・・・已然形」の係り結びによる表現効果を評価したのだろう。
コメント
あなたの足が途絶えてこんなにも辛いと言うのに、この身が死に絶える事もなく生き続けてしまった。恋しさに辛い時も確かにあったはずなのに、夫婦仲なんてこんなものなのかしらね、、。
なるほど「恋し」は「憂し」ですか。さながら結婚は「パンドラの匣」を開けるようなもの?でも、この歌を読んで「他に生き方は無かったのだろうか」とは思いませんでした。出会いが無ければ「辛さ」すら経験しない。相手を思えばこその辛さ、振り返った中に一欠片の熱があったから生き続けて来られたとも言えるのではないか、と。あくまでも「憂」であって「恨」でないのだから「恋」で終われる。それが辛いものであっても。
「かくても経ぬる世にこそありけれ」の後の思いは読者に任されています。当然、すいわさんの読みはよくわかります。そこには、それぞれの恋愛観・人生観が反映します。読むとは己を読むことなのです。読みからは、すいわさんのポジティブな生き方が感じられます。