《鶯の我》

題しらす よみ人しらす

われのみやよをうくひすとなきわひむひとのこころのはなとちりなは (798)

我のみや世をうくひすとなき侘びむ人の心の花と散りなば

「題知らず 詠み人知らず
私だけが夫婦仲を鶯のように嫌だ濡れると泣き嘆くのだろうか。人の心が花と散ってしまったら。」

「(我)のみや」の「のみ」は、副助詞で限定を表す。「や」は、係助詞で疑問を表し係り結びとして文末を連体形にする。「うくひす」は、「鶯」と「憂く漬す」が掛かっている。「(侘び)む」は、助動詞「む」の連体形で推量を表す。「(散り)なば」の「な」は、完了の助動詞「ぬ」の未然形。「ば」は、接続助詞で仮定を表す。
雨が降り花が散って、梅の春が行こうとしている。鶯が枝を飛び回り嫌だ濡れるとでも言うように鳴いている。私はその鶯と同じだ。私だけが終わってしまう夫婦仲を嫌だ、悲しみの涙でびしょ濡れだと泣き嘆くのだろうか。あの人の心が花が散るように私から離れていってしまったら。
鶯の慌ただしい動作をたとえに用い、終わり行く夫婦仲を嘆く自分のに重ねている。相手に捨てられたら、自分だけが嘆き悲しむだろうと。「うくひす」が利いている。「鶯」と「憂く漬す」を掛けてることで、作者の悲しむ様が想像される。編集者は、こうした表現の周到さを評価したのだろう。

コメント

  1. すいわ より:

    鶯の喩えはよく使われますが、「われのみや」が悲しい。梅の枝で鶯が羽ばたいて花を散らすように、自分ばかりが足掻いて、動揺すればするほど相手の心は離れていく。折しも涙雨のような春雨が降り注いで来て、、なんとも哀れです。

    • 山川 信一 より:

      すいわさんのコメントを読み、この歌では鶯の慌ただしい動作そのものが重要なのだと思い直しました。授業内容を少し訂正します。

  2. まりりん より:

    鶯が、落ち着かなげにバタバタと枝の周りを飛び回っている様子が目に浮かびます。作者の心の動揺と重なって、理解し易いです。

    • 山川 信一 より:

      なるほど、鶯がせわしなく飛び回る様子(と言っても私が知っているのはメジロのそれですが)は、作者の心の動揺を表していますね。

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