題しらす とものり
みつのあわのきえてうきみといひなからなかれてなほもたのまるるかな (792)
水のあわのきえてうき身といひなからなかれて猶もたのまるるかな
題知らず 友則
水の泡の消えでうき身と言ひながらなかれて猶も頼まるるかな
「題知らず 友則
水の泡のように消えないで浮き(憂き)身と言いながら、流れ(泣かれ)て猶も頼ることだなあ。」
「水の泡の」は、「消え」に掛かる枕詞。「うき」は、「浮き」と「憂き」の掛詞。「なかれて」は、「流れて」と「泣かれて」の掛詞。「(頼ま)るるかな」の「るる」は、助動詞{る」の連体形で自発を表す。「かな」は、終助詞で詠嘆を表す。「泡」「浮き」「流れ」は縁語。
水の泡が消えないで浮いたままである。私は、その泡のように死なないで辛い身だと言いながら、生きながらえて泣きながら依然としてあの人を当てにすることだなあ。
終わった恋にいつまでも執着することは、女より男に有りがちだと言う。男は、気持ちを切り替えつことができず、いつまでも引きずる。空しいことだとわかっていても、そうせざるを得ない。そして、そんな自分を嘆く。作者は、その姿を水の泡の儚さにたとえ、掛詞と縁語を駆使し一首に仕立てている。編集者は、その力量を評価したのだろう。
コメント
いつ消えるともしれない、あの頼りない水の泡、浮いて消えずに流れていく。まるで恋に敗れ憂き身となった自分を見ているようだ。こんなに辛く、儚くなってしまうかと思うのに生きながらえている。消えると分かっている泡(恋)、それでも消え残って流れて行く様を見ると僅かなのぞみに期待してしまう自分がいる。全く未練がましいことだなぁ、、こんな感じでしょうか。「きえて」が「きえで(消えないで)」なのですね。「消えて」で考えてしまい、「『恋心が消えて私は憂き身(貴方が浮気をしたせいで)となってしまった』と貴女は泣いて私を非難しておきながらまだ私を頼ってくるんだね」と全く違う解釈をしていました。
なるほど「言ひながら」に拘ると、そうも読めますね。ただ、それだと恋五の歌としてどうなのかという気がします。表現の意味を決めるのは文脈(場面)ですから。だから、ここは「消えで」でしょう。しかし、文脈(場面)を変えれば、その意味にもなり得ますね。しかし、それだと、作者は随分ひどいことを言いますね。
そうなのです、友則ってこんな人だったかしら?と。「きえで」で納得。編集部の紳士サロンで「実はこんなことがあってね、、、」なんてぼやくならこんな歌もありなのかと思いましたが、断然「きえで」で捉えた方がしっくり来ます。
これまで読んできて友則の人となりもわかっていますからね。こんなひどいことは言いそうもありませんね。
実際には、水の泡はすぐに消えてしまいますね。それを「消えない」というのだから、もう終わってしまった恋を「終わっていない」と、しがみ付いているのですね。確かに、作者は執着の強い人に思います。でも、恋の儚さを水の泡の儚さに例えるところが印象的な歌です。
たとえ消えずに残っていたとしても、水の泡は儚いものに変わりはありません。いつまでも終わった恋に執着する姿は、そんな水の泡にたとえるのにふさわしい。作者はそう思ったのでしょうね。