題しらす 兼覧王
すみのえのまつほとひさになりぬれはあしたつのねになかぬひはなし (779)
住の江のまつほど久になりぬれば葦鶴の音になかぬ日は無し
「題知らず 兼覧王
待つほどがほど久しくなってしまったので、声を出して泣かない日は無い。」
「住の江の」は、「まつ」の枕詞。「まつ」は、「松」と「待つ」の掛詞。「(なり)ぬれば」の「ぬれ」は、完了の助動詞「ぬ」の已然形。「ば」は、接続助詞で原因理由を表す。「葦鶴の」は、「音になく」の枕詞。「(なか)ぬ」は、打消の助動詞「ず」の連体形。「なかぬ」は、「鳴かぬ」と「泣かぬ」が掛かっている。
住の江に生えている松のように長い間あの人を待つことになってしまったので、葦辺の鶴が声を挙げて鳴かない日が無いように私は声を出して泣かない日は無い。
前の歌とは、「住の江」繋がりである。「松」に「葦鶴の音」を加えている。住の江の松、葦の浜辺に鳴く鶴、そのリアルな実景に今の自分を重ねて表している。歌では、「住の江の松」は、形式的に「待つ」を掛けて用いることが多い。しかし、こんな風に実景を表すこともできる。編集者は、それを評価したのだろう。
コメント
「松」「鶴」、変わらずに続くもの、長寿の象徴だと言うのに「待つ」「音になく」となると一転してつらく悲しい響きになってしまいます。「まつほどひさに」、詠み手は松が根を張り木に成長する程までの長い間、住の江の地にいて思い人に逢えない。葦鶴、その地に住み着いていてその声を聞かない日はない。その鶴の声は私の嘆きの声なのだよ、と。逢えない辛さ、伝われば良いのに。
作者は兼覧王で男性ですから、女性の思いを想像して詠んだのでしょう。そのためもあり、「松」「鶴」が効果的に使われ、歌としてはすっきりとした表現になっています。やはり、当事者の切実さは無いのでしょうね。
なるほど、相手があっての歌ではなく、歌うために歌った「歌」。上手くコラージュされた絵画とでも言うのか、綺麗だけれど平面的に感じるのは心の熱量が伴わないからなのですね。
確かに、この歌は歌うために作った歌のようです。視覚だけではなく、聴覚にも訴えています。歌としての完成度は高そうですが、平面的ですね。
前の歌と似ていますね。同じ状況で、同じような気持ちなのでしょうか。ただ、前の歌と比べて確かに情景がリアルに描写されているので、詠み手の気持ちを想像しやすいとは思います。
もしかしたら作者は、前の歌を知っていて、その詠み手の立場を想像してわざわざこの歌を詠んだとか。。
なるほど、そうも考えられますね。住の江の松なら、自分ならこんな風に詠むと作ったのかも知れませんね。「ほらずっとリアルになったでしょう。しかも、めでたい「鶴」を加えても、こんな悲しい歌になりますよ。」と。