《二つの嘆き》

題しらす よみ人しらす

ひさしくもなりにけるかなすみのえのまつはくるしきものにそありける (778)

久しくもなりにけるかな住の江のまつは苦しきものにぞありける

「題知らず 詠み人知らず
久しくもなってしまったことだなあ。住の江の松ではないが待つのは苦しいものであったなあ。」

「(なり)にけるかな」の「に」は、助動詞「ぬ」の連用形で完了を表す。「ける」は、助動詞「けり」の連体形で詠嘆を表す。。「かな」は、終助詞で詠嘆を表す。「住の江の」は「松」に掛かる枕詞。「まつ」は、「松」と「待つ」の掛詞。「(ものに)ぞ」は、係助詞で強調を表し係り結びとして働き文末を連体形にする。「(あり)ける」は、詠嘆の助動詞「けり」の連体形。
あの人を待つことがずいぶん長くなってしまったことだなあ。住の江と言えば、「住の江の岸による波よるさへや夢の通ひ路人目よくらむ」と歌われた恋人に逢いにくい地。だからだろうか、この地に住む私は、常磐の「松」のようにこんなに長い間ずっとあの人を待つことになってしまった。それがこんなに苦しいものとは思っても見なかったなあ。
この歌も前の歌と同様に名歌を踏まえて作られている。「住の江」は、この名歌に限らず古来恋の歌の題材に使われてきた。古歌を連想させ、歌の内容を広げているのである。この歌には、詠嘆の助動詞「けり」が二回使われている「けり」は、同じ詠嘆でもあることに気づいた驚きを言う。この歌には、「長い」と「つらい」の二つの気付きがある。作者はどちらも嘆かずにはいられなかったのだろう。そこで、一回目は「なりにけるかな」(助動詞・助詞)二回目は「ものにぞありける」(係り結び)と強調の仕方に変化を付けている。編集者は、こうした歌作りの工夫を評価したのだろう。

コメント

  1. すいわ より:

    「待つ」のは女と思って読んでいましたが、この歌、男が詠んだ歌としても取れますか?
    こちらから送った文に待てども待てども返信が無い。長きに渡る赴任、逢えないまま時ばかりが過ぎて、あの人の心も遠のいてしまったのだろうか。あの歌ではないけれど、待つことがこんなにも辛い事だったとは思いもよらなかったなぁ、、。常盤の松、変わらず長く続く事を寿ぐ象徴だけれど、それが「待つ」となると、この永遠に続くのではないかと思える緩やかで確実な辛さに詠み手は女であっても男であっても松の木のように身を捩る事になるのですね。

    • 山川 信一 より:

      なるほど「詠み人知らず」ですから、男の歌としても読めないことはないですね。男だって待つことはある訳ですから。待つと言えば女と決めつける訳にはいきません。それにこの歌の並びでそれを否定する要素はありません。松が「松の木のように身を捩る」を連想させるというご指摘に納得しました。

  2. まりりん より:

    「松」は本来であれば縁起の良いもののはずですが、歌では「待つ」と掛かることが多いですね。だから、悲しみや苦しみの感情を連想してしまうし、実際に苦しいと嘆いています。「長い」も、対象が楽しいことなら肯定的に捉えるでしょうが、待つのが長いとなると、否定的に聞こえる。当たり前ではありますが、言葉の印象も状況と使い方次第ですね。

    • 山川 信一 より:

      住の江の松は、長寿にもたとえられますね。そうであれば、好ましいものに感じられます。しかし、恋人を待つとなれば、その長さが嫌なものに思えてきますね。確かに、言葉の印象は状況と使い方次第です。

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