題しらす よみ人しらす
こめやとはおもふものからひくらしのなくゆふくれはたちまたれつつ (772)
来めやとは思ふものから蜩の鳴く夕暮れは立ち待たれつつ
「題知らず 詠み人知らず
来るだろうかと思うものの蜩の鳴く夕暮れは待たれながら。」
「(来)めや」の「め」は、推量の助動詞「む」の已然形。「や」は、終助詞で反語を表す。「(思ふ)ものから」は、接続助詞で逆接を表す。「(立ち待た)れつつ」の「れ」は、自発の助動詞「る」の連用形。「つつ」は、接続助詞で反復継続を表す。
あの人は来るのだろうか、多分来ることはないだろう。そうは思うものの、蜩が鳴く夕暮れになると、いつも家の外に立ってあの人を待たずにはいられない。
この歌も男を待つ女の気持ちを詠んでいる。男が来ないだろうとは思いつつも、期待を止めることができないのである。
前の歌とは、「蜩」繋がりである。この歌は、自分の行動をそのまま詠んでいる。作者は、自らの切ない思いを歌に詠まずにはいられなかったのだろう。この歌は自分のために詠まれた歌だろう。歌は時に自らを慰める働きを持つ。この歌に凝った技巧は用いられていない。しかし、仮に相手に贈ったとしても、その控えめな表現がかえって作者の悲しみを伝えたに違いない。編集者は、前の歌と対照的な歌を配したのだろう。
コメント
こちらの歌は訪れる事は無いと分かっていて、それでも毎日、日暮れ時になると待ち人をすぐに迎えられるようにと立ち待つ後ろ姿が見えるようです。「ひくらしのなく」は毎日泣き暮らしている様子を表すようでもあります。歌には描かれていませんが、斜めの夕陽に長く伸びる女の影、蜩の鳴き声が尾を引くように消えていくのと呼応して女の未練が聴覚と視覚で感じ取れるようで悲しい。蜩の鳴く声が消えたら女は、、。
この歌は前の歌ほどは技巧的ではありませんが、それでも「ひくらしのなく」には、一日中泣いて暮らす女の姿も表していますね。女の未練を「聴覚と視覚」に訴えますね。どうしてなかなか凝った歌です。
哀しい女シリーズですね。
蜩の鳴き声と夕暮れが、哀しさを一層引き立てます。
この歌も 読み人知らず なので、男が女の立場になって詠んだ可能性を考えてみました。内容が具体的で、想像で詠むには難し過ぎるでしょうかね…? でも、あり得ない訳でもないですよね?
「詠み人知らず」ですから、その可能性を否定できません。しかし、僧正遍昭の歌の後に置かれていること考えると、女が詠んだ歌でしょう。男が想像で詠んだ歌との違いを示していると読みたいところです。