題しらす けむけい法し
もろこしもゆめにみしかはちかかりきおもはぬなかそはるけかりける (768)
唐土も夢に見しかば近かりき思はぬ仲ぞ遙けかりける
「題知らず 兼芸法師
中国も夢に見たので近かった。思わない仲こそが遥かなのだなあ。」
「(見)しかば」の「しか」は、過去の助動詞「き」の已然形。「ば」は、接続助詞で原因理由を表す。「(近かり)き」は、過去の助動詞「き」の終止形。「(思は)ぬ」は、打消の助動詞「ず」の連体形。「(仲)ぞ」は、係助詞で強調を表し係り結びとして働き文末を連体形にする。「(遙けかり)ける」は、詠嘆の助動詞「けり」の連体形。
中国のことを夢に見た。中国は遠く離れた外国である。しかし、夢に見ればあたかもそこにいるかのように身近に感じられた。それなのに、あの人には、夢でさえ逢うことができない。今や心は、中国と日本よりも遥かに離れているのだなあ。
夢でも逢えないほど心が離れてしまったことを嘆いている。
この歌は、かつては恋仲だったのに、今ではすっかり心が離れてしまった悲しさ・寂しさを表してる。その心の距離感を言うのに、夢に見た中国を比較の対象にする。その中国さえも夢に見れば近く感じられた。しかし、心が離れた二人は、それ以上に離れてしまった。だから、夢にも見ることがないと言う。前の歌とは、夢繋がりである。この歌も、夢でさえも逢えない嘆きを詠んでいる。ただし、それを直接は言っていない。編集者はその表現法を評価したのだろう。
コメント
中国でさえ夢の中だったらその場にいるかのように近しく感じられたというのに、ごく近くにいるはずのあなたは夢ですら逢えないほど、中国との距離よりも心が離れてしまった、、。当時の中国は果てしなく遠い国という概念であったことでしょう。月にしない辺りがまだ可能性を残したかったからでしょうか。行く事すらかなわないほど夢のように遠い国よりも心が離れてしまった寂しさ。千年の時を越えて私たちには詠み手の心が届いているというのに、思い人の心には届かない。なんとも皮肉なことです。
心が離れてしまったことを言うのに、中国を出してきたことにこの歌の新しさがあったのでしょう。確かに、心は時間や空間を超えても届くのに、身近にいる人には届かないこともあります。皮肉なものですね。
この歌、妙に納得してしまいました。肝心なのは、物理的距離ではなくて心の距離なのですよね。大切な人に、いつも心を寄せる…素敵です。先生が仰るように、心は時間や空間を超えて届きますものね。
中国よりは遥かに近くにいるのに、夢にも現れてくれない。物理的距離は問題じゃありません。心理的距離の方がずっとつらいものですね。