題しらす よみ人しらす
こふれともあふよのなきはわすれくさゆめちにさへやおひしけるらむ (766)
恋ふれども逢ふ夜の無きは忘草夢路さへや生ひ茂るらむ
「題知らず 詠み人知らず
恋い慕っても逢う夜が無いのは、忘れ草が夢路までも生い茂っているからだろうか。」
「(恋ふれ)ども」は、接続助詞で逆接を表す。「(夢路)さへや」の「さへ」は、副助詞で添加を表す。「や」は、係助詞で疑問を表し係り結びとして文末を連体形にする。「(茂)らむ」は、現在推量の助動詞「らむ」の連体形。
こんなにあの人のことを恋しく慕っても、現実にも夢にまでも逢える夜が全く無い。それは、忘れ草が、現実はもちろんのこと、夢の通い路にまでも生い茂っているからだろうか。あの人はそれを眺めてしまったに違いない。
作者は、恋人に夢にも逢うことができないので、その理由を考えずにはいられない。
忘れ草のせいにしているのは、相手が自分の意志で逢おうとしないとは思いたくないからである。事実を認めずに、自分が傷つかない理由をこじつけている。人にはこんな心理もある。編集者は、それを捉えた点を評価したのだろう。前の歌とは、「忘草」繋がりである。「忘草」の効果の対象が自分ではなく相手になっている。「忘草」の使い方は様々あることを示している。
コメント
貴方の訪れない夜、寂しく一人床に着く。せめて夢の中で会えれば良いのに夢の中にさえ貴方は現れない。貴方が私の元へ来れないのは夢の中にまで忘れ草が生い茂って道を阻むからなのね、、。前の歌では種を取っておけばと嘆いていたのに、こちらの歌では忘れ草が画面いっぱい埋め尽くされていますね。項垂れ咲く忘れ草に詠み手の姿が重なります。訪れない理由を自分が一番分かっている、でも認めたくない。そんな思いに忘れ草が一斉に揺れて、心の内のざわつきが波のように広がって行くように見えます。
作者は、忘草が生い茂っている様を眺めている相手を想像しているのでしょう。忘草は、眺めるだけでも物思いを忘れると信じられていました。それが生い茂っているのですから、忘れるのも当然です。忘草が「項垂て咲く」様は、作者の「詠み手の心」を象徴しているようにも読めますね。
前の歌と忘草繋がりですが、前の歌では忘草を眺めたのは自分、この歌では相手、と対象が変わるところが興味深いです。忘草も様々な使い方が出来ることが、目から鱗です。
『古今和歌集』は、題材が限られていると言いますが、使い方次第でいかようにも歌を作ることができます。その手本を示しているのでしょう。