《忘れたはずの人》

題しらす よみ人しらす

やまのゐのあさきこころもおもはぬにかけはかりのみひとのみゆらむ (764)

山の井の浅き心も思はぬに影ばかりのみ人の見ゆらむ

「題知らず 詠み人知らず
山の井戸のように浅い心でも思わないのに、どうして影ばかりだけあの人が見えているのだろう。」

「山の井」は、「浅き」に掛かる枕詞。「(思は)ぬに」の「ぬ」は、打消の助動詞「ず」の連体形。「に」は、接続助詞で逆接を表す。「(影)ばかりのみ」の「ばかり」は副詞、「のみ」は副助詞で、共に限定を表す。「(見ゆ)らむ」は、現在推量の助動詞「らむ」の終止形で、疑問を表す。
山の井戸は、湧き水を石で囲んだだけのものなので、底が浅い。私はもうそんな浅い心でもあの人を思っていない。もう自分とは無関係な人なのだから。それなのに、どうして水や鏡にあの人の姿ばかりが映って見えているのだろう。
自分では、別れて忘れたと思っているのに、その人の姿ばかりが見えてしまうことの不思議さを嘆く。
この歌は、『万葉集』の「安積山影さへ見ゆる山の井の浅き心を我が思はなくに」を元に作られている。元歌は、浅い心で思っているわけではないのにわかってもらえないことを嘆く。それに対して、この歌は、構成を反転し、「影さえ」を「影ばかりのみ」に変えた。そのことによって、自分では捉え切れない心の不思議さを嘆く歌にした。これも人間心理の普遍的な有り樣である。編集者は、こうして本歌を深化させた点を評価したのだろう。

コメント

  1. すいわ より:

    自身の意識、頭ではもうすっかり過去のものと割り切れているはずの終わった恋。片隅にすら恋情は残っていないはずなのに、水鏡を見ればあなたの面影が浮かんでくる。意識できない、心の奥底に仕舞い込まれた本心が思わぬところで露見する。山の井の底の浅さを冒頭に出すことで反対に手の届かない心のより深い所を意識させる。万葉集との対比も効いて思いの深さがより強調されます。最後の疑問の「らむ」で「ほら、あなたもそうでしょう?」と読み手の心にも問いかけて来ます。上手いですね。

    • 山川 信一 より:

      過去のものと割り切ったと思っていても、自分の心には嘘がつけませんね。別れの辛さに、相手を忘れたいと思っているだけのこと。本心は影となって表れてしまいますね。
      山の井の浅さがかえって思いの深さを感じさせるというご指摘に納得しました。
      現在推量の疑問の「らむ」を使うことで、「あなたが思ってくれているからですね。」と言わんばかりですね。

  2. まりりん より:

    深層心理でしょうか。井戸の水面に、とっくに忘れたと思っていた人の影が見えた。。思わずドキッとして、まだ別れた恋人を忘れられずにいた自分に気付き、動揺する作者の様子が目に浮かびます。

    • 山川 信一 より:

      人は自分のことは自分が一番わかっていると思いがちです。「思いたいこと」が自分だと思ってしまうのです。しかし、「思いたいこと」と「思っていること」は違います。こんな風に、事実にそれを思い知らされることがあります。『古今和歌集』は、人間心理をよく捉えています。

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