題しらす 伊勢
あひにあひてものおもふころのわかそてにやとるつきさへぬるるかほなる (756)
あひにあひて物思ふ頃の我が袖に宿る月さへ濡るる顔なる
「題知らず 伊勢
合いに合って物を思う頃の私の袖に宿る月までが濡れる顔であることだ。」
「(月)さへ」は、副助詞で添加を表す。「(顔)なる」は、断定の助動詞「なり」の連体形。
本当によく似ている。もの思いに耽る頃の私の涙で濡れた顔と袖で濡れた袖の涙に映る月までが濡れている顔であるのは。
作者は、つれない恋人を思い空を眺める。そこには明るい月が掛かっている。そして、その月は涙で濡れた袖にやはり濡れて映っていることに、月も自分と同じ顔をしていたことに気がつく。これは、泣いている自分を自嘲気味に捉えているのである。
自嘲も時に慰めになる。自分を傍から眺めているからだ。この歌は、そんな心理を捉えている。第一句が字余りになっている。これは、似ていることを発見した驚きを表している。この句は「濡るる顔なる」に掛かっている。思い切った構成である。編集者はこうした内容と表現を評価したのだろう。
コメント
実際には、袖の涙に月が映るはずはないですよね。月も自分と同じに悲しんでいると、こじつけたいのですね。そのように考えれば慰められる、と。
んー、やや無理があるような気もするのですが、、私の感性が乏しいのかな?
自分の泣き濡れた顔と袖の涙に映る月の顔が似ているって?これは誇張表現ですね。実際にそんなことはあり得ません。でも、そう思わずにはいられないのでしょう。その時、「おひにあひて」と言います。これは「似合って似合って」という意味です。この言い方がちょっと浮かれている感じがします。「自分でも笑っちゃうよね」という感じがしませんか?私はこれを自嘲と捉えました。
合わせ鏡の中に閉じ込められたような歌ですね。悲しみのループから出られない。
貴方との熱い逢瀬を繰り返した。でも、そんな時も過ぎ去り、物思いにふけりただ一人、空を仰ぐとそこには月。落ちる涙に濡れる袖、水鏡が出来るほどに泣き濡れて、袖に映り込む月はまぁ、なんと私と同じ潤んだ顔をしている。泣いているとも、涙を流しているとも言っていないのに、詠み手の悲嘆に暮れる姿が月の光に照らされて美しいまでに浮かび上がります。
優れた表現は書いていないことを想像させます。「泣いているとも、涙を流しているとも言っていないのに、詠み手の悲嘆に暮れる姿が月の光に照らされて美しいまでに浮かび上がります。」同感です。まさにこれがそれですね。