題しらす きのとものり
くももなくなきたるあさのわれなれやいとはれてのみよをはへぬらむ (753)
雲も無く凪ぎたる朝の我なれやいとはれてのみ世をば経へぬらむ。
「題知らず 紀友則
雲も無く凪いでいる朝の私であるか。どうして、嫌われてばかりで世を経てしまっているのだろう。」
「(泣き)たる」は、存続の助動詞「たり」の連体形。「(我)なれや」の「なれ」は、断定の助動詞「なり」の已然形。「や」は、終助詞で詠嘆を伴う疑問を表す。「いとはれて」は、「いと晴れて」と「厭はれて」の掛詞。「のみ」は、副助詞で限定を表す。「(経)ぬらむ」の「ぬ」は、完了の助動詞「ぬ」の終止形。「らむ」は、現在推量の助動詞「らむ」の終止形。
私は雲も無く長閑な朝の私なのか。どうして、空が雲もなくよく晴れて取り付く島も無いように、何にすがることもできず、あの人に嫌われるだけの男女の仲を過ごして来てしまっているのだろう。
作者は今の自分を歌にすることで何とか現状に耐えているのだろう。
人は恋しい人を思う時空を見上げる。この歌は、その後の思いである。天気が人の気分を左右することはよくある。普通、晴れは気分を明るくし、曇りや雨は気分を暗くする。しかし、晴れていても、それがかえって気分を落ち込ませる連想もある。この歌はそれを言っている。天気が気分に左右することもあれば、その逆に気分が天気を意味付けることもあるのだ。ここに発見がある。「くももなくなきたる」には、「あなたがいなくて泣いている」が掛かっているかも知れない。「いとはれて」の掛詞が上手い。「のみ」「ぬらむ」の使い方も的確である。よく作者の思いを表している。編集者はこうした点を評価したのだろう。
コメント
雲ひとつなく晴れ渡った、凪の朝のような私。一見、穏やかで澄み切っているように思えますが、「恋五」ですから、、。
なぜこうも貴女に嫌われ続けたまま私は幾夜も過ごしたものだろう。逢瀬もなくただ一人、貴女に拒絶されたまま朝を迎える。雲の一つもあれば、そよと吹く風も感じられる所だがそれすらない。噂一つ立たない空っぽな私。それがあの“何も無い空”、空しく、つまらない私に他ならない。ああ、なんと情けなく不甲斐ない自分であることか、、。こんな感じでしょうか。掛詞も緻密で景色が全く違うものに見えてきます。
晴れて雲一つない青空がいつも心を晴れやかにするわけではないのですね。明るさまでが我が身を嘲笑っているかのように感じてしまうこともあります。こう言われてみれば納得しますね。物事は常識通りには行かないこともあります。もう一歩踏み込んでみろということですね。
雲もなく凪たる朝。晴れやかな清々しい朝をイメージしてしまいます。この言葉に、あなたが居なくて泣いている が隠れているとは。。明るい言葉で、負の気持ちを表す技巧が驚きです。
でも確かに、落ち込んでいる時に空が憎らし程の快晴だと、却って気持ちが逆撫でされる気持ちは理解出来る気がします。
心は物によって生じます。けれども、物と心の関係は微妙です。物がいつも同じような心を生む訳ではありません。物を意味付けるのがその時の心であることもあります。心が先ということもあるのですね。たとえば、大好物のケーキが心持ちによっては憎たらしく思えることだって有りそうです。