題しらす 寵
やまかつのかきほにはへるあをつつらひとはくれともことつてもなし (742)
山賤の垣穂に生える青葛人はくれども言伝も無し
「題知らず 寵
樵の家の垣の先に生える青葛の蔓を繰るように人は来るけれど、伝言もない。」
「山賤の垣穂に生える青葛」は、「繰れ」を導く序詞。「くれ」は、「繰れ」と「来れ」の掛詞。「(くれ)ども」は、接続助詞で逆接を表す。
樵の家の垣の先に生える青葛の蔓を手繰り寄せるようにあなたはこの辺りに来てはくださいます。けれども、私に対しては何のお言葉もありません。私はもう、声を掛ける価値も無い存在に、つまり、取るに足らない青葛ほどの存在になってしまったのでしょうか。
前の歌では、自分が故里のような存在になってしまったことを嘆いていたが、この歌では「山賤の垣穂に生える青葛」ほどの存在になってしまったことを嘆いている。このたとえも新鮮であり、作者の実感をよく表している。編集者はその点を評価したのだろう。
コメント
376 、640番の歌を詠んだ人と同一人物でしょうか。だとしたら、、
地方住まいの読み手。かつての恋人がこの地を訪れているらしい。
垣根越しに様子伺いの者をちらほら見かけるけれど、あんな別れ方をしてバツが悪いのか、貴方自身は姿を見せようともしないのね。そればかりか文の一つも寄越さない。こんな田舎女にかける言葉など無いっていう事かしら?
しおしおと嘆くか弱さ、が普通の女でしょうね。「寵」だったら「ご立腹」かしらと全く違う姿を想像してしまいました。
同一人物です。寵は、376番は離別歌、640番は恋三で朝の別れの歌、そして、この歌は忘れられた女の歌。恋多き女なのでしょうか。恋をすれば、喜びもあるでしょうが、様々な場面に於ける悲しみもあります。歌の材料に事欠きませんね。
前の歌と同様に嘆きの歌ですが、故郷から一転、青葛とは。随分と辺鄙な例えだこと。。そこまで卑屈にならなくても良いと思いますが、そうなる程に悲しみに暮れたということでしょうか。
「山賤の垣穂に生える青葛」から作者はそんな辺鄙なところに住んでいたことがわかりますね。見捨てられて、それが殊更辺鄙さが気になったのでしょう。