題しらす よみ人しらす
たまかつらはふきあまたになりぬれはたえぬこころのうれしけもなし (709)
玉蔓這ふ木数多になりぬれば絶えぬ心の嬉しげもなし
「題知らず 詠み人知らず
蔓が這う木が多くなってしまったので、絶えない心は嬉しがることもない。」
「玉蔓」は、「玉」は「蔓」の美称。男をたとえている。「木」は、女をたとえている。「(なり)ぬれば」の「ぬれ」は、完了の助動詞「ぬ」の已然形。「ば」は、接続助詞で原因理由を表す。「(絶え)ぬ」は、打消の助動詞「ず」の連体形。
蔓草が寄生する木が多くなるように、あなたは多くの女のところに通うようになってしまいました。それでも、あなたはまめな方。私のこともお忘れではないようです。こうして来てくださるのですからね。私に対して変わらない愛情を持ち続けてくださることはわかります。でも、正直に言えば、心から嬉しいとも思えません。私は、沢山の女の一人に過ぎないのですから。
男女の愛は独占欲が強い。滅多に訪ねて来ない男への恨み言である。男は木に寄生する蔓草なのだと嫌味を言っている。
この時代は、男が女のところに通うというのが恋のルールだった。そのため、男は複数の女のところに通うことができる。一方、女は基本的に待っているしかない。このルールは、男に都合がよかった。男は女の浮気が許せないくせに、自分は複数の女を愛することができる。したがって、女のこうした不満は当然である。この歌は、その不満を木に寄生する蔓草のたとえを用いて見事に表している。編集者はそれを評価したのだろう。
コメント
分かっている事を敢えてストレートに伝えている訳ですね。文を遣わすのでなく、訪れた男に詠んで聞かせたのではないでしょうか?「嬉しくない」と声に出して拗ねて見せて内心では「今宵は私のもの!」と喜んでいる。でも、その素振りを微塵も出さないように細心の注意を払って冷たくあしらう。待つ身だからこそのかけ引き、どちらに軍配は上がるでしょう。
ばるほど、「嬉しげもなし」は、本音ではない。そうですよね。そんなことを敢えて伝えることはありません。拗ねてみせて、御心に探りを入れる。女もなかなかしたたかです。恋は駆け引きですね。
女性は待つ身だけれど、独りだけを待つとは限りませんね。貴方だけ の振りをして複数の殿方が通っているかも。木に蔓がからまる一方で、花には色んな虫がつきますものね。不満の次は 脅し の歌を探したくなります。
別の男が通ってきても、それをバカ正直に言うこともありませんね。にもかかわらず、男など、木に寄生する蔓草に過ぎないと相手の不実を批判する。恋に於いては、意外に男女は対等なのかもしれません。