藤原敏行朝臣のなりひらの朝臣の家なりける女をあひしりてふみつかはせりけることはに、いままうてく、あめのふりけるをなむ見わつらひ侍るといへりけるをききて、かの女にかはりてよめりける 在原業平朝臣
かすかすにおもひおもはすとひかたみみをしるあめはふりそまされる (705)
数々に思ひ思はず問ひ難み身を知る雨は降りぞまされる
「藤原敏行朝臣が業平の朝臣の家に住んでいた女と交際して手紙を遣った言葉に、今参ります、雨の降ったのを見て行くのを迷っていますと言ったのを聞いて、その女に代わって詠んだ 在原業平朝臣
懇ろに思っているのか思っていないのか聞きにくいので、私の身を知る涙雨は一層激しく降っている。」
「(思は)ず」は、打消の助動詞「ず」の連用形。「(問ひ難)み」は、接尾辞で原因理由を表す。「(降り)ぞ」は、係助詞で強調を表し係り結びとして働き文末を連体形にする「(まされ)る」は、存続の助動詞「り」の連体形。
あなたは今行くとも、雨が降るので迷っているともおっしゃいます。そのお言葉に私を本当に愛していらっしゃるのかどうか確かめかねております。あなたの私への愛はその程度のものなのですね。だから、あなたが行くかどうか迷っていらっしゃる雨以上に、私の憐れな身を知る涙の雨が盛んに降りこぼれているのです。
雨で行くのかどうかを迷っている敏行に対して、業平が女に代わって詠んだ歌である。雨にこと寄せて、敏行の痛いところを突いている。愛は冷めやすい一面もある。雨など問題にしなかった時期もあったのに、逢瀬をためらうようにもなる。しかし、再び愛を復活させるのも歌の力である。敏行は、この歌によって、女(実は業平なのだが)の魅力を再認識することになる。これ程の歌を作れる女なのだ、自分が愛するに値する女なのだと。
およそ、表現というものは、何か具体的な場面で何か特定の目的を持ってなされる。表現の良し悪しは、その目的にいかに添っているかによって決まる。その観点からこの歌を見ると、表現に無駄が無く情報量も多く、その目的を見事に果たしていることがわかる。まさに恋の贈答歌のお手本である。また、この歌は、読み手に歌の背景をもっと知りたくさせる。物語性豊かな歌である。それが、たとえば、『伊勢物語』の第百七段を生み出した。編集者は、こうした点を評価したのだろう。
コメント
雨を言い訳に逢いに行くことを躊躇う、、敏行はこの女性に飽きてきてしまったのでしょうか? 失望した女性は上手く歌を返すことができず(あるいは技量が未熟で)、主人の業平に代筆してもらった訳ですね。敏行が歌に惹かれて女性を見直したとしたら、上手く騙されたということ? 恋は駆け引きですね。
『伊勢物語』では、その後敏行はずぶ濡れになって逢いに来ることになっています。たとえ飽きられても、歌によって恋心が復活することもあります。そのお手本のような歌ですね。
敏行が逡巡する様が返歌の十二文字でありありと目に浮かびます。詞書無しならば微に入り細に入り上手い歌、わざわざ詞書で敏行を道化役に仕立てて物語性を持たせる。伊勢物語の時にも思いましたが、敏行と業平、仲が良かったのでしょうね。そうでなければ「いやぁ、業平にしてやられた」では済まない。「たかがこのくらいの雨で行く行かないを迷う程度の恋なのか?さぁずぶ濡れになってでも今すぐ来い!」とニンマリする業平、「あはは、やっぱり、あやつにバレたか。私の歌を見せちゃう初なところも可愛いんだよな。さて、では参るか」と腰を上げる敏行、という裏物語も思い浮かべてしまいます。源氏と頭中将みたい。紫式部もそんな風に思いながら古今和歌集を楽しんでいたのかもと妄想が広がってしまいます。
楽しい「妄想」ですね。『古今和歌集』には、こんな「妄想」の楽しみもあるのですね。きっと紫式部もそうして読んだのでしょう。『古今和歌集』の読み方に紫式部になったつもりで読むという方法がありそうですね。紫式部ならどう感じただろうかと想像して読むのです。これは新しい読み方かもしれません。今後も是非試みてください。