題しらす よみ人しらす
むらとりのたちにしわかないまさらにことなしぶともしるしあらめや (674)
群鶏の立ちにし我が名今更に事無しぶとも験あらめや
「題知らず 詠み人知らず
立ってしまった私の名。今更何も無かったふりをしても効果があるだろうか。」
「群鶏の」は、「立ち」に掛かる枕詞。「(立ち)にし」「の「に」は、完了の助動詞「ぬ」の連用形。「し」は、過去の助動詞「き」の連体形。「(事無しぶ)とも」は、接続助詞で仮定を表す。「(あら)めや」の「め」は、推量の助動詞「む」の已然形。「や」は、終助詞で反語を表す。
群がっている鳥が大きな音を立て目を惹き付けて飛び立つように立ってしまった私の噂です。ととえ今更、何も無かったような素振りをしても、どれほどの効果があるでしょうか。全く期待などできません。
作者は、もうこの恋は隠し通すことができないと相手に伝える。その上で自分は現状を受け入れるつもりだと。そして、相手にもこの関係が公になる覚悟を促している。
「群鶏の」は、「立ち」の枕詞ではあるけれど、それを超えて、「群鶏の立ちにし我が名」が噂の立つ有様をイメージとしてよく表している。一度立ってしまった噂が人々の記憶から消えることの難しさが伝わってくる。たとえ、立つ鳥が跡を濁さなくても、その姿は目に焼き付くのである。編集者はこの比喩の巧みさを評価したのだろう。
コメント
「群鶏」を「立ってしまった噂」に例えている。なるほど、立つ鳥跡を濁さず で目には跡形もなくなったとしても、脳裏には「立つまでの鳥」の有様が焼きついていて、同様に、一度立った噂は静まったように見えても実はひそひそと囁かれ続ける。火を消し止めても、煙はいつまでも燻り続けると。説得力のある例えですね。
「群鶏」は、伝統的にこう表記します。私は、これを単純に「鳥」のことだと考えて、飛び立つイメージで捉えましたが、これが「鶏」の事を指すのなら、イメージが違ってきますね。集まっていた鶏が声を立てて散らばっていったことになります。それはそれで喧しいですね。まりりんさんは、どう捉えますか?
一斉に飛び立つ鳥の群れ。一瞬にして耳目を集めます。椋鳥の群れではないけれど、たちまち空を黒雲が覆うように流れ飛ぶ。まさに見えない噂を可視化したかのようです。放たれてしまったらもう収拾のつけようがない。ある意味、不可抗力を逆手にとって最後の一押しをしているのですね。
まりりんさんへのコメントにも書きましたが、「群鶏」の表記に沿って考えることもできそうです。「収拾の付かない」喧しさが想像されますね。こっちの方がいいような気もしてきました。いかがでしょうか?
なるほど、あくまでも立つのは噂、「群鶏」、若冲のお庭が目に浮かびました。楽しい!更に寄ってたかって感が増しますね。あら、失礼、噂の的の方はそれどころではありませんでした。あちこち突いて振れ回り、すぐに忘れて別の事。思い出したようにまた騒がれて、、噂された側は堪ったものではありません。
ここは、けたたましく鳴く鶏の方が相手の思惑など気にせずに無責任に噂をするのをたとえるのにふさわしいかも知れませんね。
鶏、夜明けに鳴いて逢瀬の時の終わりを告げますし、朝一番、誰よりも早く声を上げるところも、いかにも恋の邪魔者。「あの方、今朝、あちらからお戻りよ」「あらー!そうなの?ねぇねぇ、聞いた?、、、」と言いふらしているように思えてきました。漠然と「鳥」ではなく「鶏」である意味がありますね。
鶏は、恋の邪魔者にふさわしいたとえですね。夜明けを知らせるのは、恋の時間の終わりを知らせることです。そして、今度は四方八方に散らばって噂を流す。そう思ってみれば、鳥ではなく鶏の方が合っていますね。