題しらす こまち
うつつにはさもこそあらめゆめにさへひとめをよくとみるかわひしさ (656)
現にはさもこそあらめ夢にさへ人目を避くと見るが侘しさ
「題知らず 小町
現実にはそうもあろうけれども、夢にまでも人目を避けると見るのがつらい。」
「こそ」は、係助詞で強調を表し係り結びとして働き文末を已然系にし後の文に逆接で繋げる。「(あら)め」は、推量の助動詞「む」の已然形。「さへ」は、副助詞で添加を表す。
現実にそうなのは仕方がありません。私だって納得しています。恋とは忍ぶものなのですから、現実に逢いに来てくださらないのはわかります。でも、夢の中までもあなたは人目を避けて訪ねてくれません。そんな夢ばかり見ます。なんとつらいことでしょう。
男が人目を避けて逢いに来ないことへの女の側からの思いが詠まれている。小町は夢への拘りが強いらしい。恋歌二の巻頭にも夢を題材にした歌が載っていた。現実になかなか逢えないために夢に期待する思いが強いのだろう。ところが、夢にもうらぎられる。そこで、現実を何とかしてほしいと男に訴えるのである。
恋は、許された恋であろうと、許されない恋であろうと、女は男が訪ねてくるのを待っているしかない。しかし、一度情を交わしてしまうと、恋の情熱が失せることも多々ある。それは男女どちらの側にもあるけれど、それが男であれば、女は立場上つらい。何とか男を引き留めねばならない。それには、歌の魅力によって引き留めるしかない。女の歌の技術が磨かれる訳だ。
この歌は、現実と夢との対比に「さもこそあらめ」という表現が効果的に働いている。「こそ」の係り結びによって逆接になっている上、指示語の意味が後でわかる仕掛になっていて、先を読ませる工夫がなされている。編集者はこうした目の付け所と表現の工夫を評価したのだろう。
コメント
「思ひつつ寝ればや人の見えつらむ夢と知りせば覚めざらましを」
と歌っていた彼女。恋は忍ぶものだから人目を避けて会いに来れないのはしかたがない。でも、夢の中でまでそれを気にして会えないなんて、辛いわね(夢に出てこないなんて貴方の私への思いってそんなものなの?あぁ、だからお渡りがないって事なのね)?(←ここ、疑問符である事が重要)どこまでも小野小町。こんな歌を受け取ったら馳せ参じるより他ありませんね。
まあ、その通りなのですが、それなら波の女と変わりませんね。「現実を何とかしてほしいと男に訴え」てはいます。しかし、男任せにしないで、自分で何とかしようとするのが小町です。次の歌とセットで読むと面白い。乞うご期待。
現実に起こったことは、受け入れるより仕方がない。でも夢の中での出来事へ受け入れきれないようですね。夢こそ、心のうちに秘めていること、恐れていることが現れるから? 見透かされたようで心地が悪い?
現実は意志の力が働いて、精神をコントロールできます。ところが、夢は精神を制御できません。悪夢を見るゆえんです。しかし、この歌はそれを嘆いているのでしょうか。
そんな一般論ではなく、この歌は相手の男への訴えです。なぜこんなことを言うのか、その面を考えましょう。