《古歌の改作》

題しらす つらゆき

さつきやまこすゑをたかみほとときすなくねそらなるこひもするかな (579)

皐月山梢を高み郭公鳴く音そらなる恋もするかな

「題知らず 貫之
皐月の山の梢が高いので、郭公が鳴く声がする空ではないが、落ち着かない恋もすることだなあ。」

「皐月山梢を高み郭公鳴く音」は、「そら」を導く序詞。「梢を高み」の「を・・・み」は、いわゆる「み語法」で、「・・・が・・・ので」の意。「そら」は、名詞「空」と落ち着かないという意の形容詞「そらなる」の掛詞。「かな」は、終助詞で詠嘆を表す。
五月雨が降る山。その夜の闇の中、郭公は梢の高いところにいて、びしょ濡れになっている。そのため、その鬱陶しさに鳴き続けている。その声が空から聞こえてくる。私は、その空のように心が空っぽで、何も手に着かず落ち着かない恋もすることだなあ。
「皐月」と言えば、現代では清々しい季節をイメージする。しかし、当時の「皐月」は、五月雨が続く梅雨の季節を意味した。その闇夜の中、山の高い梢でびしょ濡れになり、そのつらさに鳴く郭公。それに、作者は自分を重ねている。この季節はただでさえ鬱陶しいのに、その上、何も手に着かない恋までもしてしまったと嘆いている。
この歌は、『万葉集』の「この山の峯に近しと我が見つる月の空なる恋もするかな」(2627)を本にしている。「月」だから秋だろう。しかし、これではつらい恋のイメージにふさわしくない。そこで、秋の夜の月の清らかさを梅雨の鬱陶しさに置き換え、それに濡れて鳴く郭公を登場させたのである。
前の歌とは郭公繋がりである。この歌は古歌の改作である。古歌を本にしてもこのような歌が出来るという手本を示している。編集者はその点を評価したのだろう。ただし、これは後代の本歌取りの技法とは趣を異にする。

コメント

  1. すいわ より:

    「空なる」は「落ち着かない」という意味なのですね。「むなしい」のか「そわそわしている」のか?古歌の印象からすると、「近いように見えるのに手の届かない『虚しい』恋」の方なのでしょうか?雨のイメージはなかったのですが、そうだとすると、高い梢から聞こえてくる郭公の声は、音だけれどその音が鳴く(泣く)からイメージして降り注ぐ雨のように思えてきます。声がするのみ、姿の見えない郭公、見上げた空は木々に遮られ、先行きの見えない恋を象徴しているよう。郭公の声だけがその空間に飽和している。

    • 山川 信一 より:

      「そら」が「落ち着かない」という意味になるのは、空には、心の置き所がないからでしょう。そうですね、古歌は届きそうで届かない月のイメージですね。それに対して、この歌は雨の降る闇夜をもってきました。雨とは言っていませんが、皐月と言えば、五月雨です。「梢を高み」が郭公が鳴いている理由だとすれば、これはもう雨に濡れているからでしょう。その声も作者を更に落ち着かせなくします。声を頼りに見上げても、木々はおろか何も見えません。そんな闇夜です。まさに自分の恋を象徴するかのようです。

  2. まりりん より:

    「皐月」は確かに、1年で最も気持ちが良い季節ですよね。でも五月雨って、、当時は皐月は梅雨だったでしょうか。そうであれば随分イメージが違いますね。
    作者はこの時、実際に恋で苦しんでいたわけではなかった? 想像して創り上げる方が、却って難しいですよね。郭公がせわしなく鳴く声が聞こえてきそうです。

    • 山川 信一 より:

      当時は旧暦ですから、皐月は五月雨の季節、すなわち、梅雨です。
      古歌を本に作って這いますが、もちろん経験を踏まえているに違いありません。嘘偽りではありません。、

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