《涙の訳》

しもついつもてらに人のわさしける日、真せい法しのたうしにていへりけることを歌によみてをののこまちかもとにつかはしける あへのきよゆきの朝臣

つつめともそてにたまらぬしらたまはひとをみぬめのなみたなりけり (556)

包めども袖に溜まらぬ白玉は人を見ぬ目の涙なりけり

「下出雲寺で人が法事をした日、真静法師が導師として言っていた言葉を歌に詠んで小野小町の元に贈った  阿倍清行朝臣
包んでも袖に溜まらない白玉は、人を見ない故の目の涙だったのだなあ。」

「溜まらぬ」「見ぬ」の「ぬ」は、打消の助動詞「ず」の連体形。「涙なりけり」の「なり」は、断定の助動詞「なり」の連用形。「けり」は、詠嘆の助動詞「けり」の終止形。
真静導師のお話の玉とは違って、袖に包んでもそこに溜まらない白玉は、あなたに逢えない故に私が流す悲しみの涙だったと気づきました。私は、導師のありがたい玉のお話を聴いている時ですら、あなたに逢えない悲しみを忘れることができません。何もかもがあなたに結びついてしまいます。私のあなたを思う気持ちはこれほどのものなのですよ。
当時の人には、真静導師の話がどんな内容だったかが容易にわかったのだろう。だから、清行はその内容を具体的に歌に詠み込んでいない。しかし、小町には、清行がどのような話を踏まえているかがわかったに違いない。だから、清行が何を言いたいのかも伝わったはずだ。何を言い、何を言わないかは、受け手と状況次第である。
この歌は、あの小野小町を口説こうとした歌として興味深い。よほど出来の歌でないと小町は口説けまい。そこで作者は、仏道と色恋という凡そ懸け離れた取り合わせを考えた。編集者は、その取り合わせの意外性に新しさを感じ、これを評価したのだろう。

コメント

  1. まりりん より:

    小町の歌が先に続いていましたが、これは小町が「贈られた」歌ということで、興味深いです。しかし、真静法師の話の内容がわからないと、今ひとつピンと来ない感じがします。

    • 山川 信一 より:

      言葉は、誰にどういう事情で言うかによって表現が変わります。親しい者同士なら「あれがこうだったんだ」で済む場合もあります。この歌も、本当のところ小町じゃないと真意がわかりません。しかし、それでも、令和に生きる我々にもわかることもあります。まずはそれを受け取りましょう。ちなみに、真静導師の話は、法華経の五百弟子授記品の「無価宝珠を以て其の衣の裏に繋げこれを与へ去り、其の人酔臥すべて覚知せず。」だと言われています。しかし、これを知ってもピンとこないことには変わりがありません。

  2. すいわ より:

    高僧の有難い珠玉の説法、こぼれ落ちぬよう袖で受けたつもりが、おや、すっと染み込み消えてしまう。そうか、この白玉は説法にも増して尊い貴女を思って流した私の涙だったのだ、と言う感じなのでしょうか。対極にあるものを比較対象にしてその振り幅の大きさで思いの深さを表したという事なのでしょうけれど、当時の人は心動かされるのでしょうか。相手に対する情熱を感じないというか、うっかりすると自己陶酔しているように聞こえなくもないと思いました。

    • 山川 信一 より:

      女性の感性は、平安の昔も令和の今も変わらないようです。小町もこの歌には心動かされなかったようです。仕掛に凝りすぎて、心が籠もっていません。どこか嘘くさい。これでは、小町を感動させることはできそうにありません。

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