題しらす 読人しらす
かかりひのかけとなるみのわひしきはなかれてしたにもゆるなりけり (530)
篝火の影となる身の侘しきはなかれて下に燃ゆるなりけり
「篝火の影となる身が侘しいのは、流れ泣かれて下に燃えることであったなあ。」
「なかれて」は、「流れて」と「泣かれて」の掛詞。「なりけり」の「なり」は、断定の助動詞「なり」の連用形。「けり」は、詠嘆の助動詞「けり」の終止形。
私は、まるで川の流れに映った篝火の影のようである。我が身が侘しい。侘しいのは、篝火が水の下に流れて燃えるように、我が身が心の中で泣かれて燃えているからだった。誰にもわかってもらえず、一人で耐えているのだ。
前の歌は、表現が我が身が篝火となって浮いているという状態に留まっていた。それに対して、この歌は、さらに影となった自分の心にまで踏み込んでいる。つまり、篝火の影となると、侘しい思いがするとまで言っている。その思いとは、一種の孤独感であり、誰にも知られずに恋のつらさに耐えることなのだと。
作者は、篝火が川の水の下に流れることと、恋する自分が心の深いところで泣いていることとに類似性を発見した。そして、それを「なかれて」の掛詞によって表した。編集者は、この独創性を評価したのだろう。
コメント
なるほどこちらの歌は「わひしき」と心の状態を示していますね。水に映る炎ならば燃える状態も、その火の色も見えるけれど、「篝火の影」ではその熱を誰も知ることがない。ただ一人、人知れず心の奥底の炎に焼かれて涙するしかない。
この歌は、前の篝火では言いたりないことを言っているようにも思えます。「篝火」を題にした歌合の歌としても捉えられそうです。いずれにしても、編集者は「篝火」の歌のバリエーションとして載せたのでしょう。
川に映った篝火が影のように水の下に流れている。それはまるで、私の心が水の底深くに漂って泣いているよう。
自分の心を第3者的に上から眺めている。恋のつらさに苦しみながらも、どこかに冷静さを持ちあわせている気がします。恋の苦しみに前後不覚になったら、このようには詠まないのではないかと。。
確かに自分心を客観的に眺めている感じですね。冷静さが感じられます。この歌で相手の心を動かせるという期待はあまり持っていなさそうです。