《平凡さの効用》

題しらす 読人しらす

わすらるるときしなけれはあしたつのおもひみたれてねをのみそなく (514)

忘らるる時し無ければ葦鶴の思ひ乱れて音をのみぞ泣く

「忘れられる時が無いので、葦の鶴のように思い乱れて泣いてばかりいる。」

「(忘ら)るる」は、可能の助動詞「る」の連体形。「(時)し」は、強意の副助詞。「(無けれ)ば」は、接続助詞で原因理由を表す。「葦鶴の」は、「乱れて」の枕詞。「のみぞ泣く」の「のみ」は、副助詞で「音をのみぞ泣く」全体を限定・強調する。「ぞ」は、係助詞で強調を表し係り結びとして働き文末を連体形にする。「泣く」は、四段活用の動詞「泣く」の連体形。
あなたのことをひとときも忘れることができません。ですから、今の私は、あの葦にいる鶴の群れが乱れ飛ぶように思いが乱れて声を上げて泣いてばかりいます。あの鶴の姿や声は私そのものなのです。どうかお察しください。
作者は、今の自分を乱れ飛び鳴き続ける葦鶴にたとえた。平安貴族と言えども、このくらいは見聞きしたことがあったのだろう。相手の視覚・聴覚に訴えたのである。これで、相手は作者を思うことなく鶴を見聞きできなくなる。身近な自然の事物にたとえることの効果である。その意味で、たとえの題材はどこにでもある平凡なものの方がいい面もある。
編集者は、川繋がりで葦鶴をたとえに使った歌を出してきた。たとえの題材はこの歌のように、誰でも知っているものの方が効果的である。『古今和歌集』の題材が絞り込まれているのはそのためでもある。問題は、それをこの歌のように上手く使いこなすかどうかにある。

コメント

  1. まりりん より:

    この時代は、鶴はあちこちで見かける鳥だったのでしょうか。私は動物園以外で見たことがないので。鶴が乱れ飛んでいる光景は、きっと圧巻でしょうね。平凡な風景には思えないのです。

    ちなみに、以前にここに書いた糠床の上手な祖母は、「田鶴(たづ)」という名前でした。明治生まれの祖母、今更ながら良い名前だと、しみじみ思いました。
    余計なことをすみません。。

    • 山川 信一 より:

      そうですね。「鶴が乱れ飛んでいる光景は、きっと圧巻」でしょう。確かに、その光景は平凡ではありません。しかし、私はたとえとして平凡だと言ったのです。恋人に「君は百万本の真紅の薔薇のように美しい」と言ったとします。その場合、「百万本の真紅の薔薇」は圧巻でも、このたとえは平凡ですよね。
      私の子どもの頃、家の前は水田でした。秋になると、沢山の白鷺が集まってきました。平安時代なら、川には鶴が普通にいたのではないでしょうか。
      ちなみに、「たづ」は、「つる」の歌語です。「かえる」を「かはづ」と言うのと同じです。お祖母様のお名前の「田鶴」は、田に鶴がいたことからの当て漢字です。鶴が身近にいたのです。その優雅な姿にあやかって付けたのでしょう。その姿を誰しもが知っていたからに他なりません。いいお名前です。

  2. すいわ より:

    五百八番の「いで我を人な咎めそ大船の寛の揺蕩たに物思ふ頃ぞ」の本歌取りの歌の大海原から始まり川を遡って岩山まで登り詰め、そこからまた川を下り広がる葦原まで持って来る。まるで一続きの絵巻ものです。だれもが知っている歌がタイトルコールとなり、どこを切り取っても自分の思いと重ねられる仕掛けになっている。編集者の腕前に敬服するばかりです。

    • 山川 信一 より:

      それぞれの歌が独立しつつも、同時に一連の流れでも読めるように編集されていますね。その周到さに改めて驚かされます。『古今和歌集』恋の巻こそ恋の教科書ですね。『源氏物語』もここから生まれました。

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