題しらす 読人しらす
ゆふくれはくものはたてにものそおもふあまつそらなるひとをこふとて (484)
夕暮れは雲の果たてにものぞ思ふ天つ空なる人を恋ふとて
「夕暮れは雲の果てに向かってものを思う。空にいる人を恋うとして。」
「(もの)ぞ」は、係助詞で強調を表し係り結びとして働き文末を連体形にする。「思ふ」は、四段活用の動詞「思ふ」の連体形。ここで切れる。以下は逆接になっている。「(天)つ」は、格助詞で名詞(空)を修飾する。「(空)なる」は、断定の助動詞「なり」の連体形。
夕暮れには、雲の果てに向かって空を眺めながら物思いに沈みます。手が届かないほど遠く離れた場所にいるあなたを恋しく思うことで。
平安時代の恋は夜になされた。そのため、夕暮れになると、恋の時間が近づくため、一層人恋しさが増してくる。したがって、恋人に逢えない人には辛い時間帯の始まりである。それに伴う物思いは空を眺めながらなされた。空は手の届かない場所なので、逢えない恋人がいる遠く離れた場所を思わせるからである。逢えない悲しみに一人ひたる。これも恋の典型的な姿である。この歌は、個人的経験に見せて恋の普遍性を詠んでいる。
コメント
夕暮れ時は、なぜかもの悲しくなったり人恋しくなったりしますね。沈んでいく太陽を惜しむ気持ちと恋人を思う切なさが重なります。逢えない夜は、次第に深まる夜の闇にひとり取り残されたようで、不安で寂しい。
空なる人、遠くにいる人とは、大切な人が亡くなった可能性はありますか?
夕暮れの空に物思いに沈むのは、普遍性のある心理ですね。現代人でも共感できます。しかも、平安貴族の恋は夜に為されますから、一入だったに違いありません。夕暮れ時という上手い場面を切り取って歌にしていますね。
「空なる人」は、亡くなった人とも考えられますが、生きていて手の届かない人とする方が恋の歌としては、効果的でしょう。亡くなっていれば、諦めも付きますから。
夕暮れ時の寂しさ、手も届かぬ遠い存在の、逢うことのできない貴女を思ってもの思いに耽っています。あの雲、夕日の赤に染まってまるで私の熱い思いを映しているようだ。でも刻々と日は沈んで恋の時が迫ってくる。心の火は消えるどころか、思いは募るばかりです、、旅の空?今は亡き人への思い?「今はまだ見ぬ人への思い」の方がこの歌のドラマを盛り上げますね。
夕日は沈んでも、恋の思ひという火は消えません。ますます思え盛るばかりですね。「天つ空なる人」ですから、手が届かないほど高貴な方なのかもしれません。しかし、そうでなくても、逢えない人は「天つ空なる人」に思えるものです。そう思えてしまうところが恋の恋たる心理なのでしょう。