しかの山こえにて、いしゐのもとにてものいひける人のわかれけるをりによめる つらゆき
むすふてのしつくににこるやまのゐのあかてもひとにわかれぬるかな (404)
掬ぶ手の雫に濁る山の井の飽かでも人に別れぬるかな
「志賀の山越えで、石の井戸の元で親しくしていた人が別れていった際に詠んだ 貫之
掬う手の雫に濁る山の井戸のように満足することなく人に別れてしまったことだなあ。」
「掬ぶ手の雫に濁る山の井の」は、「飽かでも」を導く序詞。「(別れ)ぬるかな」の「ぬる」は、完了の助動詞「ぬ」の連体形。「かな」は、詠嘆の終助詞。
志賀の山越えで汗をかき、山中の石で囲った井戸で喉を潤すことにした。そして、親しくしていた女性がここで別れていった際に歌を贈る。
志賀の山中の石で囲っただけの簡単な井戸。その井戸は浅いので、手で水を掬うと指の間から雫が落ち、下の泥で直ぐに濁ってしまいます。そのために満足するまで水を飲むことができません。そのようにあなたとは満たされることなく名残惜しくも別れてしまうことですね。
実景を序詞にしている。序詞で山中の石井での行為を具体的に描きつつ、「飽かでも」を介して、〈水を十分に飲めない〉と〈人と堪能できない〉の二重の物足りなさに結びつけて、別れの名残惜しさを伝えている。これは、相手女性の心にその風景と共に作者の思いを長く残すための仕掛である。この歌を贈られた女性は決してそれを忘れないはずだ。作者は、この歌によって写実と抒情を融合させる和歌の作り方の一つの型を示してもいるのだろう。
コメント
山の中の簡素な浅い井戸。山道を歩いて来て喉が渇いているけれど、両手で水を掬うと指の間から漏れた滴が落ちて水が濁ってしまった。もっと沢山飲みたい。これでは喉の渇きを癒せない。
同じように、あなたともっと一緒にいたい。話をし足りないから別れ難い。
この 親しくしていた人 とは恋人でしょうか。あるいは親しい友人か、、男性の友人の可能性も考えられますかね? いずれにしても、風景と共に作者の思いが強烈に印象付けられますね。
そうですね、現代の感覚なら女性以外も考えられます。ただ、詞書にある「ものいひける」という言葉は、異性に情を通わせる、男女が懇ろになるの意で使われます。やはり、女性への別れの挨拶なのでしょう。こんな素敵な歌を贈られたら、その女性は、その時の情景と共に、作者のことが忘れられなくなりますよね。「ああ、あの夏の日、志賀の山越え、冷たい井戸の水、あの人の優しい笑顔・・・。」って。作者は女心を熟知しています。女ならこんな人に口説かれたいと思いますよね。まりりんさんはどうですか?
そうですね、やはり、恥ずかしがって素っ気ない振りをされるより、情熱的に近づいてくださる方に惹かれますね。困ったことに、とんとご縁がありませんが。。
友則の歌と比べると、貫之の歌の清々しさが際立ちますね。
険しい滋賀の山越え、ここまでの道のりを共に来た人との別れ。山道が厳しかった分、お互いを励まし合いながらこの井戸の所まで辿り着いたのでしょう。
いや、疲れましたね。さぁ、井戸の水を掬って差し上げましょう。喉を潤してください。さて、私も、、私の結ぶ手から零れた水ですっかり濁ってしまった。まるで私の心が曇るかのように。私の乾きを癒すには到底足らぬ水。まだまだ別れ難いというのに、この井戸のように私と貴女は浅い縁であったということか。貴女に水を向けて自らの手で旅立たせてしまったのだなぁ。
旅という非日常。共有したその特別な時間をきっと忘れることはありませんね。
素敵な物語を想像なさいましたね。この二人の姿が見えてきます。和歌は世界で一番短いドラマです。読んだ人の心にドラマは何倍にもなって膨らんでいくのが優れたドラマなのでしょう。さすが貫之の歌です。読んでいると、歌の世界に引き込まれますね。その女性に向けて贈った歌が万人の共感を呼びます。これぞ貫之の目指した和歌です。