さたやすのみこのきさいの宮の五十の賀たてまつりける御屏風に、さくらの花のちるしたに人の花見たるかたかけるをよめる ふちはらのおきかせ
いたつらにすくすつきひはおもほえてはなみてくらすはるそすくなき (351)
徒らに過ぐす月日は思ほえで花見て暮らす春ぞ少なき
「貞保の親王の母である清和天皇の皇后の宮の五十の賀に献上した御屏風に桜の花の散る下に人が花を見ている姿を描いているのを詠んだ 藤原興風
空しく過ごす月日は思われず、桜を見て暮らす春が少ないことだ。」
「(思ほえ)で」は、打消の接続助詞。「(春)ぞ」は、係助詞で強調を表し係り結びとして働き文末を連体形にする。「少なき」は、形容詞「少なし」の連体形。
平凡なる私は、空しく過ごす月日は何とも感じません。その一方で、花を見て暮らす春の日が少ないと感じています。そんな刺激がなく味気ない人生を送っている私にとって、この素晴らしい賀の宴にお招きいただいたことは何ともありがたいことでございます。皇后様は私と正反対の暮らしをしておいでです。今後もお健やかにお過ごしなさいますよう心よりお祈り申し上げます。五十の賀、おめでとうございます。
この歌は、ただちに賀の歌とは取りにくい。「徒らに」も「少なき」もマイナスのイメージを持つからだ。この歌は、上の句と下の句が対照されている。では、「月日は思われないで」「春が少ない」の主体は誰で、結局何が言いたいのだろう。主体の可能性は二つ。作者自身か后だ。しかし、后が「いたずらに過ぐす」のも、そう思うと言うのも失礼だ。「春が少ない」のも同様である。ならば、主体は作者しかない。これは、作者が自分を卑下することで、それと対極にある皇后を祝っていることになる。皇后は、自分とは違って、空しく過ごすこともなく(だからもちろん煩わされることなく)、花を見て暮らす春も多いと言うのだ。そのことで、后の実りある人生を願っているのである。
コメント
興風ほどの歌人が、「徒らに」「春少なく」過ごしているとは考えにくいです。后を引き立てるためにわざと自分をおとしめているのですね。嘘ばっかり、、と思ってしまいますが。
せっかくの桜、咲いている時間はほんの短いのだから、せめてその時期は思い切り愛でて愉しもうと毎年思うのに、私は花見のタイミングをいつも逃してしまいます。興風も后もそういう無粋なことはしないでしょうね。
この歌の解釈は難しいですね。屏風絵の中の人物、作者、后の位置付けが今一つはっきりしません。作者興風が謙遜していることは確かなのですが・・・。
確かに、平安貴族が桜の春を逃すはずがありませんからね。
この歌、とらえにくいです。
ぼんやりと過ごす時間というのは何も意識することもないので惰性で流れて行く。たまに華々しく心踊る時間があっても、そうした時は長くは続くことなく、あっという間に過ぎ去ってしまう。それが世間一般の、ごく標準的な感覚。
お后様はと言えば、今日のこの佳き日の華やぎがこの屏風絵に留められたかのように幾久しく続き、幸せが桜の花吹雪のようにいついつまでも降り注ぐことでしょう。
こんな感じなのでしょうか。遠回しでピンと来ません。
同感です。私は一応このように解釈しましたが、正直に言えば、どこかスッキリしていません。すいわさんがおっしゃるように、后に屏風絵の人物のようであって欲しいと言うのでしょうか?ペンディングです。