年のはてによめる 在原もとかた
あらたまの年のをはりになることに雪もわか身もふりまさりつつ
あらたまの年の終はりになる毎に雪も我が身もふり勝りつつ (339)
「年の果てに詠んだ 在原元方
年が終わりになる毎に雪も我が身も降り勝り古り勝りして。」
「あらたまの」は、「年」に掛かる枕詞。「(年)の」は、係助詞で主格を表し、「終わりになる」に掛かる。「ふり」は、雪が「降り」と我が身が「古り」が掛かっている。「(まさり)つつ」は、接続助詞で動作が反復継続する意を表す。
早いものだ。もう年が終わる日になってしまった。雪はこれで冬が終わるとばかりに、これまで以上に降り続いている。気が付けば、私の髪も一層白くなり、我が身は更に老けていくのだなあ。
人は毎年大晦日にはこんな思いを抱くと言うのだ。これは作者自身の個人的な思いであり、普遍的なそれでもある。在原元方は、『古今和歌集』の春の巻の巻頭の歌を作った人物である。その人物の歌を冬の巻の最後の方にも入れている。春の歌は特別なケースへの思い、冬の歌は毎年の常なる思いと対照している。
コメント
前の歌に続いて大晦日ですね。この気持ちはよくわかります。年が終わるごとにひとつ歳をとって、そして年々その早さが増していく実感が、「毎」に込められている気がします。
「ふる」には年を経るもかかっているでしょうか。より一層、時の流れの速さを感じます。
無情に降り続く雪が、 老いていくことは避けられないことだ と語っているようです。
そうですね、我が身が古びていくことを思えば、降る雪が「無情」に思えてきますね。
雪が降る、我が身が古るの背景には、年が経るがありますね。
春の巻、巻頭の歌を見てきました。この歌はこれから始まる新しい「年(歌集)」への期待、高揚感を感じさせました。私はコメントに「飛躍し過ぎかもしれませんが「新年に 先駆けて 訪れる春」を「天皇の御世に 初めての(勅撰) 和歌集」ととらえると、この歌を巻頭に据えるのはあながち間違っていないように思えます」と書いていました。
今回の歌、個人の歌としては四季の「終わり」を見つめ、人生とも重ね合わせ越し方を振り返り、感慨に耽っている歌に見えます。でも編集でここに置くことで、この和歌集の一首一首が雪のように降り積み降り積み、まっさら真っ白な大地を築いたのだと、着実に実を結び、更に芽吹く春が巡ってくるのだと言っているようにも思えます。まるで終わりの始まりの景色を見るようです。
巻頭の歌の鑑賞に、「ああこんな風にも取れるんだ!」と感動したのを思い出しました。
「終わりの始まりの景色」なるほど、そうも思えてきますね。そう思わせるのは「あらたまの」という枕詞の語感と「つつ」という終わり方からでしょう。