《春近き雪》

題しらす よみ人しらす

けぬかうへにまたもふりしけはるかすみたちなはみゆきまれにこそみめ (333)

消ぬが上に又も降り敷け春霞立ちなばみ雪稀にこそ見め

「題知らず 詠み人知らず
消えない上にまた降り敷け。春霞立ってしまったならば、雪は希に見るのだろうから。」

「消ぬが」の「消」は、ヤ行下二段動詞「消ゆ」の未然形。「ぬ」は打消の助動詞「ず」の連体形。「が」は、格助詞で連体修飾語を作る。「敷け」は、カ行四段動詞「敷く」の命令形。ここで切れる。「立ちなば」の「な」は、完了の助動詞「ぬ」の未然形。「ば」は、接続助詞で仮定条件を表す。「こそ」は、係助詞で強調を表し、係り結びとして働き文末を已然形にする。「見め」の「見」は上一段活用動詞「見る」の未然形。「め」は、推量の助動詞「む」の已然形。「め」は接続助詞の「ば」を伴う感じで、作者が雪に「降り敷け」と命じる理由を暗示している。
雪が降り始めた。しかし、降り方が弱い。降ったそばから消えてしまう。まして降り敷き積もる事は無い。これでは冬の味わいに欠ける。消えずにその上さらに降り敷き積もって欲しい。なぜなら、春霞が立つ春になってしまったら、雪は希にしか見られなくなるだろうから。
作者は、弱々しい降り方をする雪にもっとしっかり降れと命じている。雪こそ冬の味わいであり、冬は冬らしくあって欲しいからだ。しかし、冬は峠を越え春を予感させている。雪の降り方がそれを知らせている。春が来るのは嬉しいけれど、雪を眺める機会が失われるのは寂しい。雪はまだまだ降って欲しい。雪国ならぬ都ならではの、そんな気分を表している。

コメント

  1. まりりん より:

    上の句では「降り敷け」と命令形、下の句では「こそ」と強調をしていることからも、雪がもっと降り続いて欲しいと思う強い願いが伝わってきます。真冬に雪がたくさん降る頃はうんざりしても、もうすぐ終わると思うと名残惜しいのですね。あるいは、この冬は余り寒さが厳しくなくて雪が少なかったのでしょうか。冬はやはり冬らしくないと、折角やってきた春が何となく物足りなく感じるのかもしれません。

    • 山川 信一 より:

      「こそ」による係り結びには注意が必要です。単なる強調にとどまらないニュアンスが加わります。「ぞ」とはそこが違います。作者の「こそ」に込めた思いを読み取ることが必要です。
      文部省唱歌に『雪』という歌があります。「雪やこんこ あられやこんこ」と歌います。雪が降り積もることを喜ぶ気持ちを表しています。でも、その気持ちを素直に受け入れることができる地域の人もいれば、受け入れられない地域の人もいます。当時の京都の人は前者で、その意味では今の東京の人に近い。「折角やってきた春が何となく物足りなく感じる」というのではなく、雪をもっと味わっていたいのでしょう。人は希なものが好きですから。

      • すいわ より:

        この雪は、根雪になるような降り積もるものでなく、花びらのように大きいけれど、水分の多い牡丹雪なのでしょう。一片一片集めて一輪の花にしたいような気持ちでしょうか。でも、舞い落ちるそばから溶けて消えてしまう。待ち侘びる春の兆しを雪の中に見つつ、厳しいながらも美しい横顔を見せる冬の立ち去っていく事を惜しむ。本当の冬の厳しさを知らない、無邪気な悩みですね。子供の頃、雪国に住む叔父に「雪、沢山でいいなぁ」と言ったら、「トラックに積んでみんな持って帰っていいよ!」と言われたことを思い出しました。

        • 山川 信一 より:

          冬の終わりの季節感とそれに伴う思いが伝わってきますね。牡丹雪のような頼りなさそうな雪が降る。春は待ち遠しいけれど、雪も積もって欲しい。よくわかります。けれど、共感できるのは、雪の厳しさを知らないからでしょうね。

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