寛平御時きさいの宮の歌合のうた ふちはらのおきかせ
しらなみにあきのこのはのうかへるをあまのなかせるふねかとそみる (301)
白浪に秋の木の葉の浮かべるを海人の流せる舟かとぞ見る
「宇多天皇の御代の皇后温子様の歌合の歌 藤原興風
白波に秋の木の葉が浮かんでいるのを漁師が流した舟かと見る。」
「浮かべる」「流せる」の「る」はどちらも、存続の助動詞「り」の連体形。「舟かとぞ」の「か」は、疑問の終助詞。「と」は、格助詞で引用を表す。「ぞ」は、係助詞で強調を表し、係り結びとして働き文末を連体形にする。「見る」は、上一段活用の動詞「見る」の連体形。
川瀬に白波が立ち、海を思わせる。すると、この私は、白波に浮かんでいる秋の木の葉を漁師が海に流した沢山の舟ではないかと見るのだ。
作者は、川瀬に立つ白波から海を連想する。すると、浮かんでいる木の葉が漁師が流した色とりどりの沢山の舟に見えてくる。こうして、あることがきっかけで連想が次々に生まれることがある。この歌はそのサンプルになっている。もっとも、作者には、実際にそんな風景を見た経験があった。それを言うために「海人の」という語を使っている。また、「見る」と敢えて言ったのは、読み手に動作の主である「私」を意識させるためである。つまり、この経験故に、この私が「見る」のだと強調している。なぜなら、これは平安貴族にとっては珍しい経験だったからである。したがって、「木の葉」を「海人の流せる舟」にたとえることは斬新に受け取られたに違いない。
ちなみに、『土佐日記』に「廿一日、卯の時ばかりに船出す。皆人々の船出づ。これを見れば春の海に秋の木の葉しも散れるやうにぞありける。」とある。この記述は、この歌のたとえを反転させたものである。明らかにこの歌を踏まえている。
コメント
『土佐日記』、あまりの感動に歌も詠めなかった、所ですね。都の碁盤の目の外に出る事などまずない貴族にとって、大海原の様子はなるほど斬新で想像力を掻き立てるものだった事でしょう。
「、、あの方は外海をご覧になった事があるのね。漁師の船が木の葉のようと言うのだから、海はどんなに荒々しく広いのでしょう、、」と。
白波の白をベースに、流れに浮かぶ色とりどりの紅葉、躍動感に満ちています。
編者の貫之もこの歌が印象に残っていたのでしょう。だから、晩年に「おお、この光景のことか!」と思い立ったのかも知れませんね。
川面の波から海を連想したのですね。白波が立つということは、この日は風が強かったのでしょうか。
漁師たちが出した船が、どうか波に飲み込まれることなく無事に帰って来ますように、という思いを込めて、こんなふうに返してみました。
風たちて 波間に木の葉 消え行かむ 海人の御舟の 無事を祈れり
風が強くなって、海には白波が立って来た。木の葉が波に飲まれ見えなくなって、船が転覆して海に沈んでゆく様を連想してしまう。どうか、無事に浜に戻って来ますように。
作者が「私が 見る」と強調したのは、過去に見た経験を自慢しているようにも思えます。
同感します。私も「見る」と敢えて言っていることから、過去の経験の自慢に思えます。
作られた歌は、前提となる状況は、『土佐日記』のものでしょうか?それとも、独自のものでしょうか?谷川のものには思えません。この歌では、「海人の流せる舟」はたとえなので。
ん? 元歌は、興風の川瀬の歌のつもりです。木の葉を舟に例えていたので、その例えのままに水に流される木の葉を転覆する舟に例えたつもりなのですが、、おかしいですか?
例えば下の句を 海人の御舟が沈む如くに とかにすれば、繋がりますか?
あー、確かに最初の歌では、葉っぱの無事を祈っているように詠めてしまいますね。
あるいは、実際に漁師が海に出た前提があれば良かったですかね。
そうなのです。木の葉をたとえているのかとも読めます。それが海人の無事について言っているとすると、作者の立ち位置がよくわからなかったのです。川にいるのか?海にいるのか?