北山に紅葉をらむとてまかれりける時によめる つらゆき
みるひともなくてちりぬるおくやまのもみちはよるのにしきなりけり (297)
見る人もなくて散りぬる奥山の紅葉は夜の錦なりけり
「北山で紅葉を折ろうとして行った時に詠んだ 貫之
見る人も無くて散ってしまった奥山の紅葉は夜の錦であったなあ。」
「散りぬる」の「ぬる」は、自然的完了の助動詞「ぬ」の連体形で、始まりを表す。「なりけり」の「けり」は、詠嘆の助動詞「けり」の終止形で、気づきを表す。
北山に紅葉を折ろうとして赴いたが、紅葉は既に散ってしまっていた。ただ落ちた葉から思うに、奥山の紅葉は錦のように美しかったに違いない。しかし、見て讃える人がいないなら、夜の錦と同じで、その価値は正しく評価されない。宝の持ち腐れであるなあ。
紅葉を見に行く時期を逸した残念な思いを詠んでいる。せっかく北方の奥山まで出掛けたのに、紅葉は散ってしまっていた。その盛りの素晴らしさは想像するばかりである。それは誰にも見られず讃えられることもなく散ってしまったのだ。何とももったいないと思う。その思いを「夜の錦」というたとえに託した。「夜の錦」というたとえは、『史記』の項羽本紀の「富貴にして故郷に帰らざるは、錦を着て夜行くが如し」を踏まえてのものだろう。和歌もコミュニケーションの一種である。だから、書き手は、全てを言い尽くさず、読み手の想像力を信頼し、読み手との交流を図っている。
コメント
残念に思う気持ち、よくわかります。しかし、がっかりする事はありません。誰も見ていなくとも、紅葉は美しく、そして潔くその生を全うした。その事実こそが尊いではありませんか。
落ち葉見て 錦を想う 暁の 空に消えゆく 月の如くに
山ですっかり落ち葉になった紅葉を見て脳裏に浮かぶのは、錦のように鮮やかに盛りを迎えているあり様。明くる年を楽しみに待ちましょう。
それは、朝を迎えて明るくなった空に月が隠れてゆくのを見て(見えないけれど昼の空にも確かに月は存在していて)夜にはまた美しく夜空に輝く月を心待ちにするかのよう。
通じますかね。。??
なるほど、しかし作者はそう達観できなかったのでしょうね。そんな作者にこの歌を贈るのですね。
解釈→鑑賞→創作というプロセスがあります。どんな芸術も純粋な独創というものはあり得ません。こうしたプロセスを経ています。
まりりんさんが私の「解釈→鑑賞」を読んで、別の「解釈→鑑賞」が無い時には、創作へと向かうのは正しい道筋です。私も試みたくなりました。
まりりんさんの歌は、自解に合わせるのなら「落ち葉にて錦を想へ」でしょうか?
残念なのは早く散ってしまった紅葉なのか、早く見に行かなかった自分なのか。「北山」だから、他の山よりも季節の進みは早かったはず。きっと分かってはいたのでしょう。「まだ間に合うかも、行ってみたら、やはり間に合わなかった」口惜しさが滲み出ているように思います。そこで地団駄踏むのも品性に欠けるので「夜の錦」でその気持ちを表す。さすがの教養の高さ、スマートですね。
本音を言えば、紅葉に間に合わず悔しくてならないのでしょうね。それを冷静に優雅に捉えると「夜の錦なりけり」になるのでしょう。見事ですね。