《寂しき紅葉の宿》

題しらす よみ人しらす

あきはきぬもみちはやとにふりしきぬみちふみわけてとふひとはなし (287)

秋は来ぬ紅葉は宿に降り敷きぬ道踏み分けて訪ふ人は無し

「秋は来た。紅葉は我が家に降り敷いた。道を踏み分けて訪ねて来る人はいない。」

「秋は」「紅葉は」「人は」の三つの「は」は、いずれも係助詞で、取り立ての意を表す。三つの対象を対照している。「来ぬ」「敷きぬ」の「ぬ」は、どちらも完了の助動詞の終止形。
秋は来た。紅葉は我が宿に降り敷いて、この上なく美しい。しかし、紅葉は、我が家への道まで埋めてしまった。そのためか訪ねて来る人は誰もいない。つまり、この秋の情趣を分かち合う人は誰もいないのだ。それが素晴らしいだけにかえって、寂しさが募るばかりである。
紅葉の中に埋まってしまいそうな山里の侘しい住まいが目に浮かんでくる。その家の秋の深まりとそれに伴う寂しさを詠んでいる。「秋は来ぬ」は、「訪ふ人は無し」と対照されている。秋は来たのに、人は訪ねてこないのである。「紅葉は宿に降り敷きぬ」は、その家の美しさを表す。その一方、道が隠されてしまったことも表す。そして、「訪ふ人は無し」と対照されている。そのために誰も訪ねて来ないと言う。作者は、「秋は」「紅葉は」「人は」と対象を比較対照することで、一人きりの寂しさを表現しているのである。

コメント

  1. すいわ より:

    秋が来た。美しい紅葉を誰かと堪能することもなく時は過ぎて、すっかり散り敷いてしまった。誰も来る気配もない。落ち葉を踏み締める音すらしない。降り積もる落ち葉に覆い隠され自分の存在までも無くなってしまうような孤独感に包まれる。この寂しさ、暮れ行く季節の傾きにも似て、尚更視線が足元の落ち葉に向きます。

    • 山川 信一 より:

      作者の孤独感が重層的に伝わって来ますね。「は」の繰り返しが効果的です。「この寂しさ、暮れ行く季節の傾きにも似て、尚更視線が足元の落ち葉に向きます。」の鑑賞は、秀逸です。

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