《鏡の池》

おほさはの池のかたにきくうゑたるをよめる とものり

ひともととおもひしきくをおほさはのいけのそこにもたれかうゑけむ (275)

一本と思ひし菊を大沢の池の底にも誰か植ゑけむ

「大沢の池の所に菊が植えてあるのを詠んだ  友則
一本と思った菊を大沢の池の底にも誰が植えたのだろうか。」

「思ひし」の「し」は、過去の助動詞「き」の連体形。「誰か植ゑけむ」の「か」は、係助詞で疑問を表す。「か」は「や」と比較すると、答えを求める気持ちが弱く、詠嘆の気持ちが強い。係り結びとして働き、文末を連体形にする。「けむ」は、過去推量の助動詞「けり」の連体形。
大沢の池の辺に菊が植えてある。それも一本だけ寂しげに。ところが、池に近付いてみると、池の底にもう一本植えてあるではないか。その姿がとてもはっきり見える。菊の味わいが倍増された。誰が池の底にも植えただろうか。その人は、こうした楽しみ方を知っていたに違いない。
水に映っている菊への感動を表している。当時は今ほどよく映る鏡が無かったので、水は今よりも一層鏡の役割を果たしていたのだろう。水の鏡は、人の姿も映すけれど、それ以上に自然物を映すのに適している。山や森や紅葉や花々を映し、その美しさを二倍どころか、三倍にも四倍にもしてくれる。これは現代でも変わらない。だから、たとえば、逆さ富士という言葉もある。水の鏡は、自然物をいっそう味わい深いものにしてくれる。

コメント

  1. すいわ より:

    何という静けさでしょう。大沢の池、大きな池ですよね。その水面がほんの少しも波立つ事なく鏡のように景色を映し込んでいる。一人咲く菊を哀れに思い近付いてみると水鏡にもう一輪。像なのだから同じものな訳だけれど、「誰か」が添わせてくれた菊と思うと何か心温まるものがあります。友則自身が孤独を感じていた時だったかもしれない。水面の穏やかさから、菊の姿に救われたのかもしれません。

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