菊の花のもとにて人の人まてるかたをよめる とものり
はなみつつひとまつときはしろたへのそてかとのみそあやまたれける (274)
花見つつ人待つ時は白妙の袖かとのみぞ過たれける
「菊の花の傍らで人が待っている姿を詠んだ 友則
花を見ながら人を待つ時は、菊の花が待つ人の白い袖かとばかり見間違えられることだなあ。」
「花見つつ」の「つつ」は接続助詞で動作が同時に行われることを表す。「のみぞ」の「のみ」は、副助詞で限定を表す。「ぞ」は、係助詞で強調を表し、係り結びとして働き、文末を連体形にする。「過たれける」の「れ」は、自発の助動詞「る」の連用形。「ける」は、詠嘆の助動詞「けり」の連体形。
菊の花の傍らで、待ち人が来るのを今か今かと待っている人がいる。その人は、白菊の花を待っている相手の白い袖ではないかと見間違うだろう。自然にそんな誤りばかりが繰り返し起きるに違いない。菊の香も待ち人の袖の香を連想させるだろうから。
これも菊合の歌で、作者は州浜の中の人物になったつもりで詠んでいる。待ち遠しさが誤解を生む。そこに思いの強さが表れている。作者にもそんな経験があったのだろう。想像力を駆使して歌を作り、菊と共に競い合う。そんな平安貴族の優雅な遊びである。当時の菊の花の楽しみ方がわかる。
コメント
「『白菊の所で待ち合わせ致しましょう』と約束したのに、あちらにもこちらにも咲いていて、ここで良かったのだろうか、、、。」という人を想像しました。そこかしこに咲く花を眺めているにしては落ち着きがない。あぁ人待ちの人だな、と歌に詠んだのですね。その人のいる側の菊の一点から、視界がぐっと広がり、白菊が何ヶ所にも咲き乱れている様子が思い浮かびます。
「袖」と言うと涙を連想して会えない不安感も加わり、何ともそわそわとした雰囲気が伝わって来ます。
袖と菊を見間違えることは本来ならまず無いけれど、会いたい人を思う心が見せる錯覚、白菊に例えられるその関係性の美しさ、清々しさも想像させます。
なるほど、菊が何カ所も咲いていると解せば、菊を白妙の袖と間違えることもあり得ますね。視界の端に白菊が揺れていると、そんな錯覚もありそうです。