第二百四十段  恋愛論

 しのぶの浦の蜑の見るめも所せく、くらぶの山も守る人繁からんに、わりなく通はん心の色こそ、浅からず、あはれと思ふふしぶしの、忘れがたきことも多からめ、親・はらから許して、ひたぶるに迎へ据ゑたらん、いとまばゆかりぬべし。世にあり侘ぶる女の、似げなき老法師、あやしの吾妻人なりとも、にぎははしきにつきて、「さそふ水あらば」など言ふを、仲人、何方も心にくきさまに言ひなして、知られず、知らぬ人を迎へもて来たらんあいなさよ。何事をかうちいづる言の葉にせん。年月のつらさをも、「分けこし葉山の」などもあひ語らはんこそ、尽きせぬ言の葉にてもあらめ、すべて、余所の人の取りまかなひたらん、うたて心づきなき事多かるべし。よき女ならんにつけても、品くだり、見にくく、年も長けなん男は、かくあやしき身のために、あたら、身をいたづらになさんやはと、人も心劣りせられ、わが身は、向ひゐたらんも、影はづかしく覚えなん、いとこそあいなからめ、梅の花かうばしき夜の朧月にたたずみ、御垣が原の露分け出でん有明の月も、わが身さまに偲ばるべくもなからん人は、ただ色好まざらんにはしかじ。

「(しのぶの浦の海人の)見る目も窮屈で、(くらぶの山も)守る人多かろうに、無理に通おうとする男の恋心が浅くなく、そういう時には、女があわれと思う場合場合が忘れがたいことも多いだろうが、親・兄弟が許して、花婿として男を一途に迎へ据えたとしたら、かえって女は大いに気後れがしてしまうに違いない。世に暮らしかねている女が、不似合いな老法師、素性の知れない東国人であっても、裕福なのに惹かれて、『私をご所望ならば』などと言うのを、仲に立つ人がどちらにも気分を損ねないようにとりまとめて、自分を知られず、自分も知らない人を迎えるようなつまらないさよ。一体何を話の糸口にするだろうか。長年のつらさをも、『恋路を分け入ってきた葉山の』などと語り合うとしたら、それこそ尽きることのない言葉であろう。すべて第三者が男女の仲を整えるとしたら、いよいよ気にくわないことが多いに違いない。手に入れた女がいい女であっても、身分が低く、顔も醜く、年もとってしまったような男は、このような卑しい身のために、もったいないことに、女が自分の身を無駄にするだろうか、するはずがないと、その人も劣って感じられ、自分の身は、女と向かい合っても、姿が恥ずかしく感じられてしまうとしたら、それこそ甚だしくつまらないだろうが、梅の花が香ばしい夜の朧月にたたずみ、宮中の垣の内の露を分け出て帰る折の有明の月も、我が身の上に思い出せそうもない人は、何もせず恋愛を好まないには越したことがない。」

兼好の恋愛論である。恋愛は障害がある方がいい、第三者によって用意されるものはつまらない、男女の格差がありすぎると猜疑心が起きやすい、いい女を手に入れても、女の打算が目に付き、女の人格に幻滅してしまう、恋愛に縁のない者は恋愛に近付かない方がいいなどと言う。恋愛はそれをするにふさわしい者にだけ許される行為であり、恋愛を過大評価すると、かえって不幸になるから誰しもが憧れるべきものではない、つまり、恋愛を勧めるのではなく、恋愛に慎重であれと言いたいようだ。一面の真理ではある。ただし、やや常識的で月並みな考えでもある。その一方で、文章表現は凝っている。恋愛という内容にふさわしいものにしたかったのだろう。「しのぶの浦の蜑の」などの序詞を使ったり、有名な和歌を踏まえたり、文を短く切らずに長く続けてたりしている。この段は、内容よりも表現に重きを置いたようだ。

コメント

  1. すいわ より:

    理屈は通っていますよね。兼好は女性に対する不信感が殊の外、強いということもよく伝わって来ます。「恋愛」、理屈から遠いです。分かっていても、というものでしょう。異性という全く違う生き物と考えを擦り合わせていくのだから困難は付きもの、失敗するのもありなのではないでしょうか。当事者同士の事ですし、本人たちが責任を持てるのなら他人が口出しする余地はない。
    それにしても、個より家を優先する婚姻が戦前まで続いていたのですよね。農耕を主とする生活がコミュニティ優先の気風を育てたのでしょうか。

    • 山川 信一 より:

      確かに、兼好は女性に対する不信感が強いですね。理屈が通らない恋愛も敬遠しています。兼好らしい考え方です。
      ただ、恋愛は第三者が口を出すべきものではないというのは、もっともだと思います。恋愛は、当人同士のものですから。

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