第二百三十八段  兼好の自慢話 その三 ~漢詩~

一、常在光院の撞き鐘の銘は、在兼卿の草なり。行房朝臣清書して、鋳型にうつさせんとせしに、奉行の入道、かの草を取り出でて見せ侍りしに、「花の外に夕を送れば、声百里に聞ゆ」と言ふ句あり。「陽唐の韻と見ゆるに、百里あやまりか」と申したりしを、「よくぞ見せ奉りける。おのれが高名なり」とて、筆者の許へ言ひやりたるに、「あやまり侍りけり。数行となほさるべし」と返事侍りき。数行も如何なるべきにか、若し数歩の心か、覚束なし。数行なほ不審。数は四五なるべし。鐘四五歩不幾(いくばくならざる)なり。ただ、遠く聞ゆる心なり。

在兼卿:菅原氏。文章博士大学頭。
行房朝臣:能書家。藤原行成の子孫。
花の外に夕を送れば、声百里に聞ゆ:夕暮れの鐘が花の彼方まで鳴り響くと、その声は百里にまで聞こえる。
陽唐の韻:漢字の四声(平声・上声・去声・入声)の内の平声。

「一、常在光院の撞き鐘の銘は、在兼卿の草稿である。行房朝臣が清書して、鋳型に写させようとした時に、それをお受けして執り行っている入道が、その草稿を取り出して私に見せましたところ、「花の外に夕を送れば、声百里に聞ゆ」と言う句がある。「他は陽唐の韻と見られるのに、百里は誤りであろうか。」と言っておりましたところ、「よくもお見せ申し上げた。お見せしたのは私の手柄だ。」と言って、在兼卿のところへ言ってやってところが、「間違えました。数行とお直しください。」と返事がございました。しかし、数行もふさわしいのだろうか、もしかしたら数歩の意味なのか、どうもはっきりしない。数行はやはりおかしい。数とは、四つ五つの事であるに違いない。鐘が四五歩に聞こえるというのは、いくらなんでもありえない。この二字は、ただ、遠く聞こえるという意味だ。」

文章博士大学頭の漢詩の間違いを指摘した話。権威でも間違うことがある。だから、権威が言うことでも、疑う心を忘れてはならないということか。韻の間違いを指摘しただけでなく、訂正後の語句についてまで論評しているのだから、大したものである。兼好の教養の程がわかる自慢話である。これによって、兼好は、読者の『徒然草』への信頼を高めようとしたのだろう。

コメント

  1. すいわ より:

    「兼好に見せる判断をした事で誤りが見つかった、私の手柄だ」と思っている入道が滑稽。折角、兼好が誤りを指摘しても、それがどう誤っているか分かっていないから在兼卿に伝えても的外れな返事しか貰って来れなかったのでしょう。在兼卿にしても、指摘があった事をきっかけに誤りを正すチャンスだったでしょうに、権威の驕りからでしょうか、こちらも指摘の真意を汲み取れていないばかりか考え直す手間ひまを惜しんでいるようにすら感じられます。兼好さん、これは自慢していいです。

    • 山川 信一 より:

      なるほど、入道の伝え方が悪かったのでしょう。在兼卿の訂正も早すぎますね。この間違えは、うっかりミスではありません。もっと時間を掛けて訂正すべきものですね。
      では、兼好ならどういう語句に置き換えるでしょう。聞いてみたい気がします。

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