秋の歌合しける時によめる 紀よしもち
もみちせぬときはのやまはふくかせのおとにやあきをききわたるらむ (251)
紅葉せぬ常磐の山は吹く風の音にや秋を聞き渡るらむ
「秋の歌合をした時に詠んだ 紀淑望
紅葉しない常緑樹の山は、吹く風の音に秋を聞き続けているのだろうか。」
区切れが無い。「音にや」の「や」は、係助詞で疑問を表す。係り結びとして働き、文末を連体形にする。「聞き渡るらむ」の「らむ」は、助動詞「らむ」の連体形で、原因理由の推量を表す。
常緑樹しか生えていない山がある。その山は、秋が来ても紅葉せず変化がない。だから、吹く風の音に秋を感じて過ごしているのだろうか。確かに、秋の深まりと共に風の音は激しさを増してきている。風の音にも秋はあるのだ。
この歌は、前の歌が海に注目しているのに対して、山に注目している。秋が来ても、海には変わらない浪の白い花があるように、山にも紅葉せず緑のまま木々があると言う。ここでは、紅葉と対照する色を白から緑に変えている。また、山を擬人化して、内容の印象を強めている。さらに、巻四・秋上の巻頭の歌「秋来ぬと目にはさやかに見えねども風の音にぞ驚かれぬる」にも対応しており、風の音は、秋の訪ればかりでなく、秋の深まりも知らせてくれると言うのである。
コメント
「もみじせぬ」山は木々の間を通る風の音を聞いて秋の訪れを知らないわけではない。分かってはいるのだろう。他の山々が錦に着替えておめかしする中、何か取り残されたような寂しさを常緑の山は感じているのでは。変わらないものが変化していくものを見送る寂しさが秋らしい。
それにしても歌の編集が効果的で驚かされます。百人一首の札のように全部並べて眺めてみたくなります。
常磐の山を擬人化することで「変わらないものが変化していくものを見送る寂しさ」を表現したのですね。確かに、人間社会にはこういう思いがありますね。秋はそういう思いを掻きたてる季節ということですね。