第二百九段  悪事への抵抗

 人の、田を論ずるもの、訴へに負けて、ねたさに、「その田を刈りて取れ」とて、人をつかはしけるに、先づ、道すがらの田をさへ刈りもて行くを、「これは論じ給ふ所にあらず。いかにかくは」と言ひければ、刈るものども、「その所とても、刈るべき理なけれども、僻事せんとてまかる者なれば、いづくをか刈らざらん」とぞ言ひける。理いとをかしかりけり。

「人で、田の所有権ついて争う者が訴訟に負けて、いまいましさに、『その田の稲を刈り取れ。』と言って、人をそこへやったところ、まず、そこへ行く途中の田をまでもどんどん刈って行くのを、『これは所有権をお争いになった所ではない。どうしてこのように刈るのか。』と言ったので、刈る者たちが、『その場所だって、刈ってよい道理が無いけれど、我々は道理に外れたことをしようとして出かけた者なので、どこの田だって刈らないことがあろうか。』と言った。その理屈がたいそう面白かった。」

家来は、それが仮に悪事であったとしても、主人の命令には従わねばならない。しかし、悪事をさせる主人に対する反抗はできる。この家来たちは、主人の命令に心から承服できなかった。そこで、訴訟に負けた田を刈るのも、無関係の田を刈るのも、悪事に変わりがないと実行して、抵抗したのである。兼好は、その行動を正当化する屁理屈を小気味良く感じたのである。
誰でも、悪事への反抗心は持っていたものだ。権威と言えども、唯々諾々と従うべきではない。納得の行かないことに抵抗するには、相手の理屈を逆手に取るのはいい方法だ。さらに、それに笑いを加味できれば一流だ。相手の反発を和らげることができるからだ。基準をずらすことで笑いを誘い、こけおどしの権威を失墜させるのだ。たとえば、こんなのはどうだろう。「丁寧に説明すると言ふ言葉我も何度も妻に使ひつ」何であれ、丁寧に説明すれば事足りると、この言葉が水戸黄門の印籠だと思っているヤカラへの批判である。

コメント

  1. すいわ より:

    「丁寧に説明はした(でも相手の納得には至っていない)」のは「丁寧」という言葉を隠れ蓑にした押し付けだったりする訳ですね。双方向でなければコミュニケーションを取ったとは言い難い。
    自分の利益にならないのなら、損なってしまえ、という利己的な考えの上、自分で手を下さず人にさせる。こんな人物に付き合ってはいられませんね。人の業というものはどんなに時間が経過しても変わらないものなのですね。

    • 山川 信一 より:

      「丁寧」はいい言葉ですが、近頃安易に都合よく使われている気がします。「相手が納得するまで誠意を込めて」と言い直してみるといいでしょう。
      人の業が変わらないなら、権威に抵抗する方法を身に付けていたいですね。

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