みな月のつこもりの日よめる みつね
なつとあきとゆきかふそらのかよひちはかたへすすしきかせやふくらむ (168)
夏と秋と行き交ふ空の通ひ路は片へ涼しき風や吹くらむ
「六月の月末の日、詠んだ 躬恒
「行く夏と来る秋とがすれ違う空の通路は、今頃道の片側に涼しい風が吹いているのだろうか。」
「夏と秋と行き交ふ空の通ひ路は」は、長い修飾語を伴って「通ひ路は」が主語になっている。「風や吹くらむ」の「や」は、係助詞で疑問を表し、係り結びとして働いている。「らむ」は、現在推量の助動詞の連体形である。
今日は六月三十日だ。暦の上で夏の終わりの日である。明日から七月、秋が始まる。だから、今頃はきっと、夏と秋とが空の通路で行き違っていることだろう。ならば、道の片側は秋なので、涼しい風が吹いているはずだ。これでようやく長い夏が終わる。明日からは涼しい風が吹いてくれるだろう。
夏と秋を擬人化している。空では今頃選手交代が行われているはずだと想像する。この想像には願いが込められている。と言うのは、まだしばらくは暑さが続くはずで、直ぐには涼しくなるとは到底思えないからだ。暦通りに秋が来る訳ではないのは、昔も今も変わらない。しかし、だからこそ、こんな風に暦通りに夏と秋の選手交代が行われて欲しいと願う。この擬人化にはその思いが込められている。こう想像しなければ、やっていられないのだ。明日からは涼しい風が吹くのだと信じることで、なんとか凌ごうとしている。この歌は、そんな、容易には終わらない、うんざりするほど長い夏への思いを歌っている。
コメント
うんざりする長い夏、果てしない空を見上げて、詠み手は秋の兆しをその空から手繰り寄せたかったのでしょう。少しの変化も見逃したくない。暦では夏の最後の日、地上はまだまだ夏の熱気が満ち満ちている。上空ではそろそろ涼しい風が入っていまいか、地上に届くにはあとどれ程かかるだろう?自然に視線が空へと導かれます。
夏の名残の真っ青な空、平安の世にはあり得ないけれど、一条の飛行機雲が空を左から右へ渡るのを見た様な思いがしました。あるいは夕立の後、虹が架かったのかもしれない。心の中に涼風の吹き抜ける様な爽やかさの感じられる歌です。
暦の上では、今日で夏が終わります。なのに、地上には涼しさを感じさせるものなどどこにもありません。思いは、自然と空に及びます。しかし、夕立も虹もありません。だから、無理にでもこう考えなくては、いられなかったのでしょう。この歌は、作者の想像力だけが生み出した世界です。それでいて、読み手には飛行機雲さえも想像させてしまいます。