或人のいはく、年五十になるまで上手にいたらざらん芸をば捨つべきなり。励み習ふべき行末もなし。老人の事をば、人もえ笑わず。衆に交りたるも、あいなく、見ぐるし。大方、万のしわざはやめて、暇あるこそ、めやすく、あらまほしけれ。世俗の事に携はりて、生涯を暮らすは、下愚の人なり。ゆかしく覚えん事は、学び聞くとも、その趣を知りなば、おぼつかなからずしてやむべし。もとより望むことなくしてやまんは、第一の事なり。
「ある人が言うことには、五十歳になるまで上手に到達しないような芸は捨てるべきである。励み習っても見込みが無い。老人の事は、笑うことができない。大勢の中に交わっているのも、甲斐が無いし、見苦しい。一般に、すべての行いは止めて、ゆとりがあるのこそ、感じが良く、望ましい。世俗の事に携わって、生涯を暮らすのは、愚かな人である。知りたい、やってみたいと思うようなことは、学び聞くとしても、その趣旨を知ってしまったら、ある程度はっきりしたところで止めるのがよい。そもそも、最初から望むことが無くて済ますとしたら、一番である。」
老年の過ごし方を説いている。「年五十」と言うのは、当時は、五十歳になれば、既に老人だったからだろう。それまでに身に付かない芸は止めた方がいい。それ以上続けても、上手になることが期待できないからだ。老人に遠慮して誰も咎めないのをいいことに、大衆に交じっているのはみっともない。何かを究めようとあくせくしないで、ゆとりを持って生きるのがいい。興味のあることも、ある程度見通しが付いたら止めた方がいい。一番いいのは、最初から手を出さないことだ。
かなり極端な内容である。これは、前段の但し書きなのだろう。これによってバランスを取ろうとしている。しかし、なぜそうすべきなのかの理由ついては、希薄である。「衆に交りたるも、あいなく、見ぐるし。」としか言っていない。言わば、基準は人の目である。およそ物事には、すべてに当てはまる一般論や真理など無い。この論も、ある特殊な事情にのみ当てはまるものだ。たとえば、努力を止める口実としては都合がいい。しかし、全く逆の論も成り立つ。要は、芸を続けるにせよ止めるにせよ、その人自身がその理由に納得がいけばいいだけの話だ。
コメント
百十三段でも老年の心得について触れていましたが、今回の『芸事について』は「或人のいはく」と逃げていますね。他者目線で書きつつ、自分に当てはめて捨てきれないものがあるのか?人目を気にするのならやめればいいとは思いますが。
確かに能力には限界はあると思います。例えば50歳からピアノを一から始めてピアニストになるのは難しいと思います。でも、70歳近くになって絵を描き始めたグランマ・モーゼスは80歳で才能を認められて101歳で亡くなるまで描き続け作品を残しています。
その芸事に本人がどう向き合うかによって判断が変わってくるのではと思います。
偉い人ではなく「或人いはく」としたのは、自信の無さの表れでしょうか?逃げでしょうか?兼好自身に迷いがありそうです。
要するに、なぜ上手になりたいか、その理由や目的によって、判断は変わってきます。すいわさんがおっしゃるように「人目を気にするのならやめればいい」。
自己が満足するためなら、何歳になろうとやればいいのです。