ならのいそのかみてらにて郭公のなくをよめる そせい
いそのかみふるきみやこのほとときすこゑはかりこそむかしなりけれ (144)
石上古き都の郭公声ばかりこそ昔なりけれ
「奈良の石上寺で郭公の鳴くのを詠んだ 素性
石上と言えば布留、その布留にある古い都で鳴く郭公。声だけが昔のままであることだなあ。なのに、他のものは時移りすっかり変わってしまったことよ。」
「石上」は石上寺を表しつつ「布留」を介して枕詞として「古き」に掛かっている。「こそ」は係助詞で係り結び表している。文末を「けれ」と已然形にしている。それにより以下に逆接で続く感じを与える。これが余韻を生み出している。
当時、素性法師は石上寺に住持していた。そこで郭公の鳴き声を聞く。それは昔ながらの変わらぬ声であった。その懐かしさに触発されて、古の奈良に思いを馳せる。石上には、奈良の昔、都があった。しかし、今ではその面影もなく、すっかり古びてしまった。更に、ここに住む自分の身も年老いてしまったと思う。人の世の儚さやあわれを感じている。
郭公の鳴き声には連想を誘う力がある。それを引き出すのは、どこでそれを聞くかによる。
コメント
変わらないものって安心しますね。
鳴き声でタイムスリップして、懐かしい気持ちになったことでしょう。
郭公の古る声は、去年のまま変わらないもの。奈良の都は古びていて、すっかり変わってしまったもの。
その対比が面白いですね。
ほんの些細な事をきっかけに、そういえば、と思い出されるあれこれ。色鮮やかに蘇る記憶。そしてまた郭公の鳴き声に呼び戻される。郭公の鳴き声は変わらないというのに何もかもが移ろい変わってしまったことだ、、。心が震えるのは変わらないものがあるからこそ、変わってしまったものとの振り幅の大きさに感じ入るからなのでしょう。
変わらない郭公の声、変わってしまった奈良の都、その中心にいる自分。
思いは最後にそこに行き着きますね。