第百二十九段    子どもの心

 顔回は、志、人に労を施さじとなり。すべて、人を苦しめ、物を虐ぐる事、賤しき民の志をも奪ふべからず。又、いとけなき子をすかし、おどし、言ひ恥づかしめて興ずる事あり。おとなしき人は、まことならねば、事にもあらずと思へど、幼き心には、身にしみて恐ろしく、恥づかしくあさましき思ひ、誠に切なるべし。是を悩まして興ずる事、慈悲の心にあらず。おとなしき人の、喜び、怒り、悲しび、楽しぶも、皆虚妄なれども、誰か実有の相に著せざる。身をやぶるよりも、心を傷ましむるは、人を害ふ事なほ甚だし。病を受くる事も、多くは心より受く。外より来る病は少なし。薬を飲みて汗を求むるには、しるしなきことあれども、一旦恥ぢ恐るることあれば、必ず汗を流すは、心のしわざなりといふことを知るべし。凌雲の額を書きて、白頭の人となりしためしなきにあらず。

顔回:孔子の高弟。
実有:(じつう)万物はみな空であるのに、衆生の迷いから実在するように思うこと。
凌雲の額を書きて:魏の韋誕という書家は、高所にある凌雲観という額を書くために籠で吊り上げられたと言う。

「顔回は、その志は、人に苦労をさせまいということである。すべて、人を苦しめ、物を酷く扱うこと(はしてはならず)、卑しい民の志も奪うべきではない。また、幼い子をだまし、おどし、言葉で恥をかかせて面白がることがある。大人は、本当ではない冗談なので、何でもないと思うけれど、幼い心には、身にしみて恐ろしく、恥ずかしくあきれるほどひどく思い、本当に切実であるに違いない。幼い子を悩ましておもしろがることは、慈悲の心ではない。大人が、喜び、怒り、悲しみ、楽しむことも、皆心の迷いによって生じる一時的な現象であるけれど、一体誰が実在のものと思って、それに執着しないことがあろうか。(まして子どもは言うまでもない。)体を傷付けるよりも、心を傷つけるのは、人を害する程度が著しい。病気になるのも場合、多くは心からなる。外から来る病気は少ない。薬を飲んで発汗させることには、効き目が無いこともあるけれど、一度恥ぢ恐れることがあると、必ず汗を流すのは、心のなすことだと知るべきである。(高所にある)凌雲の額を書いて、(恐怖のあまり)白髪の人となった例が無いわけではない。」

子どもの心を大切に扱えという戒めである。とかく、人は自分より弱いものを傷付けがちである。獣ばかりではない。子どももその対象になる。その場合、心を傷付けることが問題になる。心を傷つけることは、体を傷つける以上に害を与える。その証拠に、病気も心から生じる。効かない薬はあるが、恥をかけば必ず冷や汗をかく。だから、体以上に配慮しなければならない。しかも、子どもの心はデリケートである。大人なら大したことが無いことにも傷つく。それなのに、恥をかかせたり、からかったり平気でする者がいる。絶対に慎まなければならない。もっともな戒めである。子どもに関わるすべての者が心得ておくべきだ。
現在、児童虐待の増加が問題になっている。ただ、数字に表れるのは目に見える一部に過ぎない。心の虐待まで含めれば、その実態は計り知れない。その理由の一部は、心というものへの無理解、無配慮によるものだろう。しかし、このことは、『徒然草』でも既に問題にされていたのである。過去を引きずるだけで過去から学ばない典型である。
親にしても教師にしても、最初から親であり教師であるわけではない。日々それにふさわしく行動することで、よりよい親や教師に近づいて行くのである。子どもは大人の助けを求めている。その純真さに甘え、そこに付け込んではならない。

コメント

  1. すいわ より:

    子供と大人との違いは経験値くらいなのだと思っています。あくまでも対等。少ないアイテムで自分を全て表現しようとする分、子供の方がむしろ生きる能力は高い。大人は便利さに慣れて根本を失っている所がありますから。
    子供はからっぽなのではなく、まっさらなのです。書き込むための道具を大人は与える。書き込むのは本人。現代はこの辺りを間違えてしまっているのでしょうか。親がどんどん本人の意思を無視して勝手に書き込んでしまう。親の価値観を押し付けてしまう。親の考えの全てを否定するつもりはないけれど、子供の人生は子供のものであって親が自由にして良いものではないです。大人の経験値を盾に子供の未来を自由にして良い理由にはなりません。心の虐待。外側から傷が見えない分、手当が難しいし本人を蝕み続けてしまう。大人はたった一人の「自分」に責任を持って生きればいい。子供はそれを見るだけでそこから学ぶと思います。勉強させたかったら自分が勉強するところを見せるのが一番早いのではないかなぁ、、
    3歳児が腐ったみかんを見て「みかんが壊れている」と言ったのには感動させられました。子供は天才です。

    • 山川 信一 より:

      経験に基づいた貴重なご意見ありがとうございます。独善的な教師、無責任な親も、同じ事実を見ているでしょうに、このような深い認識に到りません。その理由こそ、「大人はたった一人の「自分」に責任を持って生き」ていないからではないでしょうか。
      「3歳児が腐ったみかんを見て「みかんが壊れている」と言ったのには感動させられました。」なるほど。大人は見ないで、意味付けてしまうのでしょう。「考えるな。見よ!」ですね。

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