寛平御時きさいの宮の歌合のうた おきかせ
こゑたえすなけやうくひすひととせにふたたひとたにくへきはるかは (131)
声絶えず鳴けや鶯一年に再びとだに来べき春かは
「寛平御時皇后温子の歌合の歌 藤原興風
声を絶やさず春の間はずっと鳴いてくれよ、鶯。一年に二度とでも来るはずの春ではないのだから。」
「鳴けや」の「鳴け」は「鳴く」の命令形。「や」は、間投助詞で詠嘆を表す。「鳴けよ」と鶯に呼びかけている。二句目の「鶯」で切れる。「だに」は副助詞で、我慢できる最小限を示す。「せめてもう一回来てくれるならうれしいのに、春は年に一度なのだから」の意。「かは」は終助詞で、感動を伴った反語を表す。「・・・だろうか(いやそうではない)」の意。
128の歌にあるように、晩春には鶯の声が途絶えがちになる。そこで半ば八つ当たりのように、鶯に鳴けと命じている。一年に一度しかない春が行こうとしている。それなのに、お前はもう鳴きもしない。そんな貴重な春なのだから、春の間中はずっと鳴いていてもいいじゃないか、鳴いておくれよと。
しかし、実はこれは逆である。春への不満を直接ではなく、鶯への不満という形で表したのだ。つまり、一年に一度しか来ない春への不満を鶯への不満という形で表現したのである。そういう屁理屈の一つも言いたくなる惜春の思いを、言葉を駆使して巧みに一首に仕立てている。
コメント
鳴き続けるよう鶯に命じると見せかけて春への要求なのですね。自然のものたちは人よりも更に敏感に季節の移り変わりを直接に受け止め、なのに振り返る事なく先へと進んで行く。未練がましいようではあるけれど、春を惜しむその心情があればこそ、人は自然と共にあれたのではないかと思いました。
同感です。その意味で俳句は、人が自然と友にあるための日本人の優れた知恵ですね。世界に広がるわけです。