寺院の号、さらぬ万の物にも、名を付くる事、昔の人は少しも求めず、ただありのままに、やすく付けけるなり。この比は深く案じ、才覚をあらはさんとしたるやうに聞ゆる、いとむつかし。人の名も、目なれぬ文字を付かんとする、益なき事なり。
何事もめづらしき事をもとめ、異説を好むは、浅才の人の必ずある事なりとぞ。
「寺院の名、それ例外のすべての物にも、名を付けることは、昔の人は少しも探し求めず、ただありのままに、簡単に付けたものである。近頃は深く考えて、学識を表そうとしているように聞こえるのは、たいそう煩わしくて気にくわない。人の名も、見慣れない文字を付けようとするのは、何の役にも立たないことである。
何事も珍しいことを求めて、異説を好むのは、浅学の人が必ずやることであるそうだ。」
兼好は、当時の傾向を次のように批判している。命名に必要以上に凝るべきではない。それは、己の学識を誇示しようとする虚栄心の表れである。人の名に見慣れない文字を使うと、かえって日常生活が面倒なことになる。学問とは平凡な学びに徹することである。その退屈さから逃れようとして奇を衒うべきではない。変わったことを好むのは、学問が未熟である証だ。
名を付けることには、その人の生き方が表れる。なぜなら、生きるとは、絶えず自己を外に向かって表現していくことであり、生きること自体が自己の生に名前を付けて行く営みだからだ。命名は、それが言葉になって端的に表れたものに過ぎない。だから、これは命名ばかりではない。命名を含む言語表現全般にも当てはまる。したがって、我々は自らが使った言葉によって自己を省みることができる。
コメント
自分の名って自分だけのものなのに自分の意思は一つも反映されていない事に今更気付きました。命名するっていうのはそれだけの責任を負うのですよね。だから考えてしまう。文字に意味があって、そこに願いなりを織り込んで名付けるというのは外国の人から見るとかなり稀な事らしいです。芸術に近いものがありますね。分かりやすいものから抽象的なものまで様々。奇を衒い過ぎて理解出来ないものもあります。命名という自己表現は究極の自己満足なのかもしれない。でも、自分のものじゃない。そういう意味では他者から見て余りに複雑で呼べない名前は思わしくないのかもしれません。責任重大。
「生きること自体が自己の生に名前を付けて行く営みだからだ」、なるほど名前は後付けなのですよね。後から付いてくる。名前ありきの自己ではない。そこに気付けば学“歴”偏重も解消するかも、、
人はすべての物に名前を付けようとしてきました。唐木順三は名前を付けるには「天才の英知と深いの愛情とそこばくのはにかみ」があると言っていました。至言です。
その中で、人の名前だけは、存在よりも名前が先行します。人はその名にふさわしいものになっていきます。名前が違えば、人生が変わってきます。名前は自分だけではなく、むしろ他者が使うものだからです。
既成の名前に満足することなく、自分だけの名前を付けて行くことが生きることなのでしょう。名前は多くのことを考えさせます。