第百十二段  諸縁を絶て

 明日は遠き国へ赴くべしと聞かん人に、心閑になすべからんわざをば、人、言ひかけてんや。俄かの大事をも営み、切になげく事もある人は、他の事を聞き入れず、人の愁へ・喜びをも問わず。問はずとて、などやと恨むる人もなし。されば、年もやうやうたけ、病にもまつはれ、況や世をも遁れたらん人、又 是におなじかるべし。
 人間の儀式、いづれの事か去り難からぬ。世俗の黙しがたきに随ひて、これを必ずとせば、願ひも多く、身も苦しく、心の暇もなく、一生は雑事の小節にさへられて、むなしく暮れなん。日暮れ塗遠し。吾が生既に蹉駝たり。諸縁を放下すべき時なり。信をも守らじ。礼儀をも思はじ。この心をも得ざらん人は、物狂ひとも言へ、うつつなし情なしとも思へ。毀るとも苦しまじ。誉むとも聞き入れじ。

愁へ:不祝儀。
喜び:祝儀。
蹉駝:疲れて、つまずき倒れる様子。盛りが過ぎて、衰えた様子。

「明日は遠い国に赴く予定になっていると聞く人に、心静かにしなければならない事を、人は言いかけるだろうか。急の重大事も処理し、深く嘆くことも有る人は、他の事を聞き入れず、人の不祝儀・祝儀も見舞わない。見舞わないと言って、なぜかと言って恨む人もいない。だから、年を次第に重ね、病気にも取り憑かれ、まして世を逃れ出家した人は、また、これと同じであるはずだ。
 人間の儀式は、どんなことでも避け難くないものは無い。世間の習わしが黙って捨てておけないままに、これを必ずしようとするなら、願いも多く、身も苦しく、心の休まる暇もなく、一生は雑事の小さな区切れに妨げられて、空しく終わってしまうに違いない。日が暮れたのに、目的地までは遠い。我が人生は既に衰えている。諸々の縁を手放すべき時だ。信義も守るまい。礼儀も思うまい。この意味を理解しない人は、物狂いとも思え、正気を失っている、人情がないとも思え。そしるとも苦しむまい。褒めても聞き入れまい。」

世の中には、避けにくい儀式が多い。しかし、それに従っていると、一生は雑事をこなすだけで空しく終わってしまう。だから、人からどう思われても、己の事情を優先し、諸縁を絶つべきだと言う。それも後半では自らに語りかけるような語り口で、真に迫ってくる。
もっともな主張である。では、なぜこれほど儀式が多いのか。七五三、入学式、卒業式、入社式、結婚式、葬式などなど、世には数多くの式がある。式ばかりではない。宴も会もある。それは、他者と同じであることで安心したいからに違いない。典型的なのが成人式の女性の服装だろう。どうも、我々は人と同じでなければ、不安で仕方がないようだ。
『古今和歌集』仮名序にある「ひとの心を種として万のことの葉とぞなれりける」の「ひとの心」とは、「人の一つの心(=人としての共通の心)」であった。貫之が敢えてそう言わなければならなかったのは、常識ではそう考えられていなかったからだろう。人の心は皆違っていて、他人は何を考えているかわからない。だから、なるべく同じことをするように努めるのだ。それでやっと安心できる。それが儀式の働きである。
しかし、急務・老・病・出家などの事情があれば、大目に見られる。ならば、これ以外にも儀式から自由になれる理由を作るべきだ。(もっとも、例の不安は別に解消する方法を考えなくてはならないけれど。)その意味でコロナ禍はいい面もあった。コロナによって多くの儀式から自由になれた。今後はこの教訓を生かすべきである。

コメント

  1. すいわ より:

    型に囚われ過ぎる事の愚かさ、ありますね。ただ権威を保つだけのために行われる行事、式典。いままでそうして来たからという理由で延々と続けている事。外さなければ文句もつけられない。横並びの安心感。考える必要の無さ。安直で怠惰で一つ間違えれば誰かの作為に踊らされかねない。「人の目」が基準なのは昔も今も変わらないのですね。自分で決めて自分が動く。当たり前のことを当たり前に選んで行動したいです。と言いつつ、季節の行事には積極参加してしまいます(自然を愛でたいのと自然への感謝の気持ちではありますが。)

    • 山川 信一 より:

      無意味な行事に何となく参加するのは考えものです。しかし、「自然を愛でたいのと自然への感謝の気持ち」から季節の行事に主体的に参加すのであれば、問題無いと思います。
      大事なのは、主体性があるかどうかです。流されないようにしたいですね。

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