鶯の花の木にてなくをよめる みつね
しるしなきねをもなくかなうくひすのことしのみちるはなならなくに (110)
験無き音をもなくかな鶯の今年のみこそ花ならなくに
「鶯が桜の木で鳴くのを詠んだ 凡河内躬恒
何の効果も無い声を挙げてまでも鳴く(泣く)ことだなあ、鶯が。今年だけ散る花ではないのになあ。」
二句と三句で切れる。一、二句と三句は倒置になっている。「鶯の」は「なくかな」の主語である。「ならなくに」の「なら」は、断定の助動詞「なり」の未然形で、「なくに」は、連語で詠嘆を表す。「・・・ないのだなあ。」「ないことよ」。
「なく」には、「鳴く」と「泣く」が掛けられている。鶯は花が散るのを悲しんで鳴く(泣く)のである。しかし、いくら鳴い(泣い)ても散るのを止めることはできない。何の効果も無い。四、五句でその理由を「毎年散ることが決まっている花なのだから。」と述べる。
鶯に自分の心を託している。つまり、鶯を「そんなに鳴い(泣い)でも無駄だよ。」とたしなめることで、理屈通りにはいかない自分の感情を表している。
コメント
どうにもならない事はわかっている、泣いて留めることが出来るのなら、とうにそうしている。鶯よ、それでもお前は声を上げて鳴くのだなぁ、、春が来て桜が咲き、また散る、その繰り返し。嘆いたところでこの一連の流れが変わる事はない。それでも一度毎の春を惜しむ心もまた、変わることがない。敢えて言わない気持ちを鶯が泣いて見せてくれるのですね。
春の情景を表しつつ、自分の思いも表しています。その方法に様々な表現法があることに感心します。
『古今和歌集』は、題材を限定して、表現を工夫するお手本を示してくれているようです。